枡野俊明『禅の言葉』第一章:關於「幸福」——改變日常的十句禪語

文摘   2025-01-03 16:57   新加坡  
1. 「希望」を携帯する。攜帶希望。
一志不退(いっしふたい)
「自分はこういう人生を送りたい」。志をしっかりともつこと。志を立てたら、けっしてそこから引かないこと。他人の意見に惑わされたり、一時の欲望に迷うことなく、わが志と共に歩み続けるのです。
「我希望過上這樣的人生。」——要牢牢樹立自己的志向。一旦立下志向,就絕不可輕易退縮。不被他人的意見所動搖,也不為一時的欲望所迷惑,始終與自己的志向同行。
人間の一生は、限られた時間の中にあります。それは永遠に続くものではなく、いずれは終わりの時を迎えます。その与えられた一生をどのように過ごすか。人生において何を成し遂げるか。それは、自分自身で考えるべきことです。
人的一生是有限的,並非無窮無盡,終究會迎來結束的時刻。在這有限的一生中,如何度過?在人生中實現什麼?這些都是每個人需要深思的問題。
よく「志を高くもとう」などという言い方をします。志に高いも低いもないと、私は思っています。自分自身が決めた志であれば、どんなものでもかまわない。まわりの人に優しくしようということでもいいですし、しっかり家庭を守るという志でもいいでしょう。大切なことは、それに向けて一生懸命努力をすること。その努力こそが、未来への希望となります。つまり希望というのは、はじめからそこにあるものではなく、自らの心が育んでいくもの、自分自身が見つけ出していくものなのです。
人們常說:「志向要高遠。」但我認為,志向並無高低之分。只要是自己決定的志向,無論是什麼都可以。比如想對周圍的人更加友善,或者堅守家庭的穩定,這些都可以成為志向。重要的是,為了實現這些志向而竭盡全力地努力。這份努力,正是未來希望的根基。也就是說,希望並非一開始就存在,而是由自己的內心培育並挖掘出來的。
希望の裏側には、絶望があります。いくら志をもっていたところで、もはやそれを実行することさえできない。でも、そこで絶望してはいけない。あきらめてはいけない。一人ひとりの人間には、ものすごい能力が備わっています。その能力をじて、前に進むこと。希望がないと嘆く人というのは、転じていえば自倍を失っている人のことです。長い人生ですから、時に自倍を失うこともあるでしょう。しかしどんな状況になっても、希望がまったくないという人生などありません。なぜなら、あなたが今そこにいること自体、生きたいという希望が叶っているのですから。
希望的另一面是絕望。即使懷抱志向,有時也可能面臨無法實現的情況。但即便如此,也不應陷入絕望,更不能放棄。每個人都擁有無比巨大的潛力。憑藉這份潛力,繼續向前邁進。那些抱怨「毫無希望」的人,其實是失去了自信。人生漫長,偶爾失去信心在所難免。然而,無論身處何種境地,都不會存在毫無希望的人生。因為你的存在本身,就證明了你曾懷抱「活下去」的希望,而這一希望已經實現。
2. 日に一度、感謝の気持ちをもつ。每日心懷感恩。
安閑無事(あんかんぶじ)
安らかで平穏な状態を意味します。何の心配もなく、静かに暮らすことができる日々。何ものにもとらわれることなく、自由な心で過ごす日々。幸せとは何かと問われれば、まさにこういう決態にそが幸福なのだと答えるしかありません。平穏無事に過ごせること。これ以上の幸福はないのです。
安閑無事,意指平靜且安穩的狀態。這是一種無憂無慮、靜靜度日的生活。不被任何事物所束縛,以自由的心境過好每一天。若要問什麼是幸福,答案只能是這樣的狀態。能平穩無事地生活,這是最大的幸福,無需他求。
平穏無事な生活に慣れてしまうと、人はもっと別のところに幸せがあると思ってしまいます。こんな生活はつまらない。もっと刺激的で楽しい生活があるはずだ。何の変化もない淡々とした日々ではなく、もっと変化に富んだ日常が欲しくなる。
然而,當人們習慣於平穩無事的生活後,常會認為幸福另有所在。他們覺得這樣的生活無趣,認為一定還有更刺激、更有趣的生活可追求。淡然無變化的日子無法滿足,渴望更多充滿變化的日常。
さらに他人と比較しては、自分の生活を物足りなく感じて勝手に幸せ比べをしています。これほど愚かなことはありません。なぜなら、幸福とは絶対に比較することなどできないからです。もっているお金が多いか少ないかは比較できます。でもそれは、幸福を比較しているのではありません。単純に、手に入れた「もの」を比べているだけのこと。
更有甚者,與他人比較自己的生活,感到不滿足,進而進行自我幸福的比較。這是極其愚蠢的行為,因為幸福根本無法比較。金錢的多寡或許可以比較,但這並非幸福的比較,而只是物質的數量而已。
そしてそんな「もの」は、いずれはなくなってしまうものばかり。あの世にまでもっていくことはできません。やがては手放すことになる。あの世にもっていけるのは、「ああ、いい人生だったなあ」という安寧の気持ちだけなのです。
而那些物質終將消失,無法帶入彼岸世界。最終,我們所能帶走的,唯有那份「啊,我過了一段美好人生」的安寧感。
そうであるならば「よき人生」とは何か。突き詰めれば、穏やかで平穏な日々をいかにたくさん感じるかでしょう。一日に一度は、穏やかな時間に感謝の気持ちをもつことです。朝起きて、新鮮な空気を吸いながら感謝をする。「今日も、健康で目覚めることができた。また新しい一日を過ごすことができる」と。そんな小さな幸福感を積み重ねていくことで、「よき人生」をつくり上げていけるのだと思います。
既然如此,何謂「美好人生」?究其本質,是如何多次感受那份平靜安穩的日子。每天至少一次,懷抱感恩之心,靜享那份平和的時刻。清晨醒來時,吸入一口新鮮空氣,心懷感激地說:「今天又能健康地醒來,又能度過新的一天。」通過積累這些微小的幸福感,便能打造出屬於自己的「美好人生」。
3. 祈りとは、「本来の自分」との出会いの場。祈禱——與本來自我的相遇。
無念夢想(むねんむそう)
祈りとは禅語でいえば「無念夢想」。自分を縛っている自我や執着心、そして妄想から離れること。自分自身を苦しめている「とらわれの心』から解放されることです。
祈禱在禪語中被稱為「無念夢想」。這是指遠離束縛自我的執著與妄想,解放那使自己受苦的「執念之心」。
仏壇の前に座ってお祈りをしたり、お寺にお参りをするとき、あなたは何を祈っていますか。「仕事がうまくいきますように」「試験に合格しますように」でしょうか。これは「お祈り」ではなく「お願い」です。それはそれで気持ちが楽になったりしますから、いいことでもあるでしょう。しかし、本来の祈りとは違います。
當你坐在佛壇前祈禱,或是在寺廟中參拜時,你祈求的是什麼?是「希望工作順利」還是「願考試合格」嗎?這樣的祈求其實並非真正的「祈禱」,而是「請願」。雖然請願可以讓人心情舒暢,也是一件好事,但它與祈禱的本質並不相同。
「自分は何ものなのだろう」。ほとんどの人がそう考えたことがあるでしょう。それは、日々の暮らしをしていく中で、自分自身を見失うことがあるからです。人はそれぞれの場所で、さまざまな顔をもって生きています。果たして、どれが本来の自分の姿なのか。その悩みを解き放つために祈りがあります。人間は生まれたとき、執着心や雑念などはいっさいありません。それが人生を歩いていくうちに、多くの櫛がまとわりつきます。その雑念で、鏡が張るように本来の自分の姿が見えなくなるのです。本来の美しい自分の姿と出会うために、祈りはあるのです。
「我究竟是誰?」這樣的疑問,幾乎每個人都曾經思考過。這是因為在忙碌的日常生活中,我們常常迷失自我。人在不同的環境中,戴著不同的面具,那麼,究竟哪一個才是本來的自己呢?為了釋放這樣的疑問,祈禱應運而生。人類初降生時,並無執著與雜念,純淨無瑕。但在漫長的人生旅途中,各種執念如同塵埃,漸漸覆蓋了心靈的鏡面,使我們無法看清本來的自己。而祈禱,正是為了拂去這些塵埃,讓我們重新與那個純美的自己相遇。
「仏」という言葉は、禅の世界では「本来の自分(自己)」と同意義で使われます。つまり、すべての人間には「仏」が宿っている。その「仏」と出会うために祈る。祈るとはすなわち、自分の心と対話することだと考えてください。この時間をもつことで、自分が見えてきます。この貴重な時間を、できれば一日に二度もってください。朝起きたときと夜眠る前に、静かに自分自身と対話をすることです。
在禪的世界裡,「佛」這個詞與「本來的自己」同義。也就是說,每個人心中都宿有一尊佛。祈禱,正是為了與內心的這尊「佛」相會。可以將祈禱看作是與自己內心的一場對話。透過這樣的對話,我們能更加清楚地認識自己。這樣珍貴的時刻,最好每天有兩次——清晨甦醒時,以及夜晚入睡前,靜靜地與自己的內心對話。
4. 人のために生きる。為他人而活。
無心風来吹(むしんにかぜきたりふく)
夏の暑い日に、そよそよと風が吹いてくる。それによって私たちは、一時の涼をもらうことができます。しかし風は、何も私たちを涼しくさせようとして吹いているわけではありません。ただ無心に吹いているだけです。
盛夏酷暑之日,微風輕拂而來,為我們帶來一時的清涼。然而,這陣風並非特意為了讓我們涼爽而吹起,它只是無心地吹著,隨自然流轉。
今の自分は、とても幸せな状態にある。いろいろなものを手に入れたから、少しでもまわりの人たちにそれを分けてあげたい。心に余裕があるときには、そんな気持ちになるでしょう。それは素敵なことではありますが、そこに計らいごとはいっさいありませんか?この人に分けておけば、またお返しがもらえるだろう。あるいは自分が幸せを分けることで、ちょっとした優越感を味わったりする。もしもそんな気持ちが少しでもあるのなら、それは「分け与える」ことではなく、「押しつけている」ことになります。幸せの押し売りをしているだけなのです。
當我們處於幸福的狀態時,可能會想將這份幸福分享給周圍的人。心境寬裕時,我們自然會生出這樣的念頭,這是很美好的事情。然而,這其中是否摻雜了些許算計?例如,認為「與這個人分享,日後也許會有回報」,或者因分享幸福而感到一絲優越感。如果內心有這樣的想法,那麼這便不是「分享」,而是「強加」。這樣的行為,只是在強行推銷自己的幸福罷了。
幸せとは分け与えるものではありません。自分がもっているものを分けるという発想ではなく、自分が何ももっていないのに他人に与えることが、幸せを分けるということです。たとえば自分が幸せになりたいと願うなら、まずはまわりの人の幸せを考えることです。自分のために何かをするのではなく、まわりの人に尽くすこと。まわりの人の幸せを願うことです。あなたの幸せは、周囲にいる人すべてがつくってくれています。それが人間というものです。
幸福並非來自於分配多餘的資源,而是即使一無所有,依然願意為他人付出。如果你希望獲得幸福,應該首先考慮如何讓周圍的人感到幸福。不是為了自己的利益而行動,而是盡心盡力為他人付出,祈願他人的幸福。你的幸福,其實是由周圍所有人共同創造的。這就是人類彼此相連的真諦。
幸せを分けてあげたいと思うなら、無心になってその人に尽くしてください。見返りを求めたり、自己満足に浸るのではなく、ただ無心になってその人のために何かをしてあげること。一陣の風になるがごとく、人のために生きることです。
如果你真的想分享幸福,就要以無心的狀態全心為對方付出。不求回報,也不為滿足自己的虛榮心,而是單純地為他人做一些事情。像一陣清風一般,悄然而至,為他人送上一份清涼。如此生活,便是為他人而活的真正意義所在。
5. 自分のルーツをたどってみる。探尋自己的根源。
仏法如大海(ぶっぽうたいかいのごとし)
宙の大自然の法則の大切さを説いたものです。父がいて、私たちは誕生します。もう少し過去に目やれば、父母にも祖父母にもそれぞれの両親がいす。一つの命が誕生するには、実にたくさんの人この存在が関わっているのです。
佛法如大海,這是一句強調宇宙自然法則重要性的禪語。我們的生命因父母而誕生。追溯更久遠的過去,我們的父母也有各自的父母,即祖父母,而祖父母又有他們的父母。一條生命的誕生,其背後包含了無數人的付出與聯繫。
私たちがこの世に生まれ、そして今日まで生きてこられたのは、岱性、(大学宙)の計らいによってです。自分の代から一代遡れば一〇二四人のご先祖様が、二〇代遡れば、ご先祖様の数は一〇〇万人を超えます。こうして綿々とご祖先様から受け継がれてきた命がどこかで一つでも絶えていたら、今のあなたは存在していません。この奇跡的な生命の尊さに気づくことを仏法といいます。
我們能夠降生於世,並活到今天,皆因宇宙與自然的巧妙安排。若從自己這一代向上追溯一代,便有1024位祖先;若再向上追溯20代,祖先的數量已超過百萬。這樣綿延不斷的生命傳承中,若某一環節中斷,今日的你便不可能存在。認識到這份生命的奇蹟與尊嚴,便是佛法的意義所在。
私たちが関わりをもつことができるのは、せいぜい祖父母の代まででしょう。その関わりを大切にすることです。たとえば、八〇歳のおじいさんが自分の祖母の話を五歳の孫にしたとしましょう。孫にとってみれば、それは二〇〇年も昔の話を聞くことになるわけです。その話を通して、孫は自分一人ではないということが実感として理解できます。先祖に対する感謝の気持ちが、自然と芽生えてくるのです。
我們所能直接接觸到的祖先,大多僅限於祖父母這一代,因此,我們應珍惜與他們的聯繫。例如,一位80歲的爺爺向5歲的孫子講述自己祖母的故事。對孫子而言,這相當於在聆聽200年前的往事。透過這樣的故事,孫子能真切地感受到,自己並非孤立的個體,而是生命長河的一部分。對祖先的感恩之情,也會自然而然地在內心萌生。
神様や仏様は、つまるところ綿々と命をつないでくれたご先祖の中にいます。だからこそ、お墓参りを私は勧めます。悩みごとがあったり、心が疲れているときには、ご先祖様のお墓に参ってください。私が住職を務める建功寺にも、お墓参りの人が毎日訪れます。そして誰もが、寺に来たときとお参りをして帰るときとでは表情が違います。帰るときには、薄々しい顔になっています。お墓の前で、その人だけの仏様に出会ったのでしょう。仏様は、あなたのご先祖様とあなたの心の中にいます。
佛與神的存在,其實體現在延綿不絕傳遞生命的祖先之中。因此,我建議大家多去掃墓。當你心煩意亂或感到疲憊時,不妨前往祖先的墓地。作為建功寺的住持,我每天都會見到前來掃墓的人。無論是誰,他們到訪寺廟時與參拜後離開時的表情總是截然不同。離開時,他們的臉上通常會帶著一絲輕鬆的神情。他們或許在墓前與自己心中的佛相遇了。佛的存在,不僅在於祖先,更在於你的內心深處。
6. 坐禅が穏やかな心をつくる。坐禪帶來平靜的心。
喜色動乾坤(きしょくけんこんをうごかす)
喜びに満ち溢れた人は、天地を動かすほどの力をもっているという意味です。いつも穏やかで嬉しそうな顔をしている人のところには、たくさんの人間が集まってきます。多くの人に囲まれることで、温かな交流や優しさが芽生える。なごやかな集まりの中には、ひと筋の希望が自然と生まれてきます。
「喜色動乾坤」意指充滿喜悅的人擁有足以撼動天地的力量。那些總是面帶平和笑容的人,總能吸引許多人靠近。在眾人的圍繞下,溫暖的交流與善意會自然而然地萌發。而在這樣和諧的氛圍中,一縷希望之光也會悄然而生。
今うまくいっていても、将来に希望をもてないという人がいます。明確な目標や夢がなくても、希望に満ちている人もいます。私は、後者のほうがいきいきした人生を歩んでいるように思います。人は、明日が明るいものだと言じられるからこそ生きてゆける。たとえ今がよくても未来に明るさを見出せなければ、常に不安感に襲われることになります。希望とは、人生を歩む力を与えてくれるものなのです。
即便現在一切順遂,仍有些人對未來感到無望;也有人雖未擁有明確的目標或夢想,卻滿懷希望。我認為後者的人生更加充滿生機。人能夠繼續前行,正是因為相信明天會更好。即便當下順利,若對未來看不到光明,內心便會被不安感侵襲。希望,是人生前行的動力來源。
希望というものは、人と人との関係から生まれてくるものです。イライラしたり、暗い表情をしていたのでは、誰も近づいてきてはくれません。そして人間は孤立することで、マイナス思考に陥ります。明日への明るさを失ってしまうのです。
希望源於人與人之間的聯繫。當你總是煩躁不安或面帶陰霾時,沒有人會願意接近你。孤立無援的人,往往容易陷入負面思維,逐漸喪失對未來的光明憧憬。
いつも穏やかで明るい心でいること。そのために生禅があります。本書でも、私は幾度となく坐禅を勧めています。それは、坐禅の効用には科学的な根拠があるからです。心静かに坐禅を組んでいると、脳内にセロトニンという物質が出てきます。セロトニンはうつ病などの治療にも効果のある物質で、気持ちを安定させる働きをもっています。要するに薬などに頼らなくても、坐禅を組むだけで、脳内にセロトニンが出てきて、心を安定させることが医学的にも証明されているのです。
保持穩定且明亮的心境,為此坐禪是一種有效的方法。在本書中,我多次提到坐禪,因為其功效已有科學依據。當你靜坐入禪時,腦內會分泌一種名為血清素的物質。血清素對治療抑鬱症等心理疾病有顯著作用,能幫助穩定情緒。換句話說,即便不依賴藥物,只需通過坐禪,便能促使血清素在腦內生成,從而穩定心神,這一點已被醫學證明。
特に不安感は、夜に押し寄せてくることが多い。寝る前に五分坐禅をしてみてください。心穏やかに眠ることで、明日への希望が見出せるようになるのです。
特別是夜晚,不安感最容易來襲。試著在睡前花五分鐘進行坐禪。透過坐禪讓內心平靜,你將能安然入睡,並在清晨醒來時,重新找到對明天的希望。
7. 自分に起きている小さな変化に目を向け、肩じる。關注自身的微小變化並尊重它。
少水常流如穿石(しょうすいつねにながれていしをうがつがごとし)
一生懸命やっているのに、ちっとも自分は成長しない。そういう人は自分の変化に気づくことができなかったのでしょう。「少水常流如穿石」は、ほんのわずかな水でも絶え間なく流れていると、やがては固い石にさえも穴をあけてしまうという意味です。あきらめずに一歩一歩進み続けることです。
「少水常流如穿石」意指,即便是微小的水流,只要不間斷地流動,最終也能在堅硬的石頭上鑿出孔洞。那些覺得自己努力卻毫無成長的人,往往是因為未能察覺到自身的細微變化。重要的是,不放棄,持續一步步向前邁進。
自分が思っているように物事が進まない。こんなに一生懸命がんばっているのに、成果がまったく表れてこない。こんな経験は、誰にもあるでしょう。去年と今年を比べても、一歩も進歩していないような気がする。そこで嫌気がさして、あきらめてしまう人もたくさんいます。でも、あきらめてしまってはそこで終わり。何事も中途半端にしては、事を為すことなどできません。
事情未能如預期推進,即使竭盡全力,也看不到成果。這樣的挫敗感幾乎每個人都經歷過。有時甚至會覺得,今年與去年相比,毫無進步。許多人因此失去耐心,選擇放棄。然而,放棄即意味著終結。任何事物若半途而廢,皆無法成功。
自分が努力をしている限り、必ず人は前に進んでいます。遅々とした歩みかもしれませんが、昨日よりも今日は進んでいます。見えないほどの歩みでも、まったく同じ所に立ち止まっていることなどないのです。人間は、生きている限り必ずや進化を送げているものです。自分自身の変化に目を向け、肩じることが大事です。
只要持續努力,人就一定會向前邁進。或許步伐緩慢,但今天總會比昨天更進一步。即使進步細微到難以察覺,也不可能完全停滯不前。人類在活著的每一天,都處於進化的過程中。學會關注自身的細微變化,並尊重它,這是至關重要的。
修行僧である雲水は、毎朝四時に起床します。洗面を済ませて、朝の坐禅をする。就寝は一応午後九時。この生活を何年も続けます。これほどまでに規則正しい生活をするのは、日々の自分自身の変化に気づくためです。規則正しい生活をしていると、心身の変化に敏感になります。ほんのわずかな心の動きや、体調の変化にも気がつきます。つまりは、自分を知ることができるのです。
修行僧雲水每天清晨四點起床,洗漱完畢後開始早晨的坐禪,晚上九點準時就寢。這樣規律的生活年復一年地持續進行。他們如此嚴守規律,正是為了察覺每天自身的細微變化。在規律的生活中,身心的變化會更加明顯,甚至能感知到極為細微的情感波動或體態改變。這樣的修行讓他們能更加了解自己。
長い修行期間ですが、昨日の自分より今日の自分のほうが、ほんの少しだけれと成長している。そんな実感があるからこそ、厳しい修行に耐えられるのです。
修行漫長且艱苦,但只要能感受到,今日的自己比昨日略有進步,這份實感便能支撐他們克服修行的困難。正是這些日積月累的微小成長,讓他們能堅持下去,並最終實現突破與提升。
8. 不幸せだと思わないこと。不認為自己不幸。
心外無別法(しんげむべっほう)
幸福や不幸というものは、何かの形で現れるものではありません。それは、心のもちょうで変わるもの。つまりは感じるということなのです。不幸になるというのではなく、不幸だと感じる。すべての現象や存在は、自らの心によって起こるもの。それが「心外無別法」の意味するところです。
幸福與不幸並不是具體存在的事物,而是由心態所決定的,也就是一種感受的結果。不是真正「成為不幸」,而是「感覺不幸」。一切現象與存在,皆由內心所生,這便是「心外無別法」的意義所在。
戦後の日本は、すさまじい勢いで発展を遂げました。加えてアメリカ型の文化がどんどん入り、ものの豊かさこそが幸せの証だという考え方に染まってしまいました。お金やものがたくさんあれば幸せで、少なければ不幸なのだと。しかし近年では、そういう考え方に疑問が抱かれるようにもなりました。それはいいことだと思います。
戰後的日本以驚人的速度發展,伴隨著大量美國文化的湧入,形成了「物質豐裕即幸福」的觀念。認為擁有越多金錢與物品便越幸福,反之則是不幸。然而,近年來這種觀點開始受到質疑,我認為這是一件好事。
そうであるならばお金は不要なものなのかと、よく質問されます。私は禅僧ですが、社会の中ではごく普通の生活を営んでいます。必要なものも買います。
有人可能會問:「既然如此,金錢是否變得不重要了?」作為禪僧,我過著普通的生活,也會購買自己需要的物品。
お金は必要なものです。たしかにお金がなければ困ってしまうでしょう。でも、それが不幸だとは思いません。困ることと不幸ということは、また別のことです。
金錢的確是必要的,沒有金錢會帶來生活的不便,但這並不等於不幸。困難與不幸是截然不同的兩件事。
十分に恵まれているのに、自分は不幸だという人がいます。まわりから見れば、何の不足もないのに、それでも自分は不幸だという。こういう人はきっと、不幸の種を見つけるのが趣味なのでしょう。いってみれば「不幸思老」なのです。
有些人即使生活條件優渥,仍然覺得自己不幸。在旁人看來,他們什麼都不缺,卻仍抱怨不幸。這樣的人可能已將尋找「不幸的種子」當作了愛好,簡直可以稱為「不幸癡迷者」。
不幸にならないためにすることは、一つ。それは不幸と感じないことです。人生にはいいことも悪いこともたくさんあります。毎日のように小さな悪いことに遭遇する。それをいちいち不幸だと感じていたら、それこそ不幸だらけの人生になってしまいます。それではつまらないと思いませんか。小さなことにも幸せを感じる心。そして少々悪いことが起こっても、鈍感になれる心。この二つの心をもつことです。
避免感覺不幸的方法只有一個,那就是不要將事情看作不幸。人生充滿了好事與壞事,每天都可能遇到一些小小的不順。如果每次都覺得自己不幸,那麼人生便會充滿不幸。你不覺得這樣的生活很無趣嗎?我們需要擁有兩種心態:一是對小事感到幸福的心,二是對偶爾的不順心保持鈍感的心。擁有這兩種心態,便能輕鬆地面對生活,遠離不幸的感受。
9. 小さな草花に心を寄せる。傾心於小草與花朵。
柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)
読んで字のごとく、草木は緑色に染まり、花は美しい紅色を見せてくれる。自然は、ありのままの姿を私たちに見せてくれます。その姿こそが真実のものであり、そこに不変不動の真理が宿っているという意味です。
「柳綠花紅」這句話的字面意思是,樹木展現青綠之色,花朵綻放美麗紅光。自然以最本真的模樣呈現在我們面前,而這份自然的模樣,正是真實的體現,其中蘊含著永恆不變的真理。
日々のストレスなどに晒されて、幸せを感じる力が弱くなってきた。そう思ったら、自然の中に身を置くことです。たとえば、休日にトレッキングに出かけて、山の土を足に感じながら踏みしめてみてください。ときには歩みを止めて、土や石に触れてみる。花の匂いを嗅いでみる。もっている五感をすべて使って、自然に触れることです。たったそれだけのことで、自分が生きているということが実感できます。その生きている実感の中にこそ、人間本来の幸福感が宿っているのです。
如果感覺生活壓力過大,幸福感逐漸減弱,那麼將自己交給自然吧。例如,週末去山間遠足,感受腳下的泥土,偶爾停下腳步,用手觸碰土壤或石頭,嗅一嗅花朵的芳香。運用你全部的感官去親近自然。僅僅如此,便能真切感受到自己正在活著,而這份「活著」的實感,正是人類原初幸福的來源。
自然の中に身を置くことの幸福感。それは、人間ならば誰もがもっている感覚です。ありのままの自然の中にいれば、ありのままの自分の姿が見えてきます。そこには、妄想も邪念もありません。他人と比較することもありません。まさに、自らの肌で幸せを感じているのです。
置身於自然中的幸福感,是每個人與生俱來的本能。當我們處於純粹的自然環境中,便能看見最真實的自己。在那一刻,妄想與雜念全然消散,與他人的比較也不復存在。我們所感受到的幸福,完全來自自身,來自內心的平靜。
家の中に、ぜひとも自然を取り入れてください。たった一輪の花でもかまいません。窓際に飾って朝夕に水をやり、心の中で「きれいだな」と呟くだけでいいのです。そして花びらが枯れて落ちてしまったら、掃除機で吸うのではなく、自分の掌ですくってあげることです。枯れてしまった花を再び土に帰してあげる。ただそれだけのことで、きっと幸せを肌で感じることができます。人間とは、そういうふうにできているのです。
在家中融入一些自然吧,哪怕只是一朵小花也足夠。將它放在窗邊,每日早晚為它澆水,輕聲說一句「真美啊」。當花瓣枯萎掉落時,不要用吸塵器清理,而是用手輕輕拾起,再將枯萎的花送回土壤中。僅僅這樣的一個小舉動,便能讓你切身感受到幸福。人類正是這樣與自然相連的生物。
10. 自分の庭がパワースポットになる。讓自己的庭院成為能量場所。
時時勤払拭(じじつとめてふっしきせよ)
常に邪念や安想などの汚れを払い除き、心を治さないように努めることで、自分本来の清らかさが現れてくるという意味です。人間は心のもちょうでよくもなれば悪くもなります。すべては、自分の心次第。足元をしっかりと見ながら生きること。それがすなわち精進することなのです。
「時時勤払拭」的意思是,時刻清除內心的邪念與妄想,讓心靈保持清明,這樣才能展現出自己本來的純淨。人心是善是惡,全憑自己的心態決定。腳踏實地地生活,這正是精進的體現。
パワースポットといわれる場所が、日本中に点在しています。たしかにそういう場所は、浄化作用がとても高いところです。心が穏やかになり、執着心や妄想などを取り払ってくれます。しかし、ただその場所に行けばいいというものではありません。物見海山気分で行ったのでは、ご利益はすっとんでしまいます。パワースポットに行った際には、心静かに祈ることです。雑念を取り払って、呼吸を整えながら祈ること。そういう姿勢で臨んでこそ、その場にいる意味が出てくるのです。
日本各地有許多被稱為「能量場所」的地方。這些地方確實具有很強的淨化作用,能讓人心平氣和,消除執念與妄想。然而,僅僅前往這些地方並不夠。若抱著旅遊的心態前往,便無法真正獲益。在能量場所祈禱時,應當保持心靜,清除雜念,調整呼吸。只有以這樣的態度進行祈禱,才能真正體現身處其地的意義。
私は庭園デザイナーとしての仕事もしていますので、「禅の庭」に行くことをお勧めしています。禅寺は日本各地にあります。僧侶が厳しい修行を積んでたどり着いた境地。その境地を風景として表現したものが「禅の庭」です。そこには独特の美しさが宿り、見る人の心を癒やしてくれるのびやかさがあります。技術的なことや意味など考える必要はありません。座って、心を静めて庭を眺めるだけです。過ぎゆく時間を忘れるほどの穏やかさがあります。
作為庭園設計師,我推薦大家去「禪庭」走走。日本各地的禪寺中都有禪庭,這是僧侶在艱苦修行中體悟到的境界,並將其透過景觀表現出來。禪庭有著獨特的美感,能治癒觀者的心靈,帶來一種開闊的平靜。無需思考其中的技術與意義,只需靜靜地坐下來,沉靜心靈,欣賞庭園。那種讓人忘卻時間流逝的平和,正是禪庭的魅力所在。
日常的に「禅の庭」を眺めていたいのなら、箱庭のようにして自分でつくってみるのもいいでしょう。五〇センチ四方くらいの箱に、自分だけの庭を表現するのです。小石や砂や木の枝を拾ってきて、とらわれない気持ちでつくってみてください。もしかしたらそこが、あなただけのパワースポットになるかもしれません。
如果想在日常生活中欣賞禪庭,可以嘗試製作屬於自己的「箱庭」。在約50厘米見方的箱子裡,創造自己的小庭園。拾來小石、沙子與樹枝,懷著不拘一格的心情,動手打造屬於自己的作品。或許,這裡將成為你專屬的能量場所。

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