灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。粉色是我的补注。
《绘画丛志》第41号北斋履历备注说“可以把第二代第三代宗理都认作是北斋的名号吧”,这是不正确的。第二代宗理是北斋,第三代宗理是宗二。据《古画备考》,北斋是第三代宗理,宗二是第四代宗理。想来北斋不曾自称宗理第二代,是后人给北斋冠的号。而且北斋称菱川宗理、宗二称俵屋宗理,这个俵屋宗理插绘的《草花衣之香》写于宽政十二年(1800年),第二年的享和元年辛酉年八月出版,即作为宗二被让与宗理名号次年的著述,其中插画原本是要描绘插花,观其笔意未觉不足,然若仔细品鉴,他不如师傅之处毋庸赘言。又按:第四代宗理后称菱川宗理,此时已使用“完知”印章,可在菱川宗理落款的美人画看到这枚落印,该美人画由书贾村幸村田幸吉,古书籍商人。大正11年(1922年)没。收藏。《类考》日语注释本中“書入”指一种版本,收入了作者或读者的感想。近似我们的注释本、评本。三马语:第三代宗理被称作初代宗二。后改去氏俵屋,称菱川宗理,指的就是这个名号变更。由这个宗理(俵屋、菱川)著述、文化四年(1807)版本《驿路春铃菜物语》(駅路春鈴菜物語)版权页署有“菱川宗理
画”的字样,盖“俵屋宗理”印,可以作为“先俵屋,后菱川”画号演变的一个证据。这个时候北斋开始创作锦画,画了很多狂歌木版印刷稿,也画草双纸、自创戏作,作品署名“时太郎可候”“可候”也是北斋的戏作名、画名。锦画、锦绘:简单说浮世绘一种,名称来源是“颜色鲜艳不输织锦”,多色彩木版画,发源地是江户,今东京地区。请参照今日发布另一篇文章《浮世绘彩色版画的变迁、锦绘的制作过程》。
『絵画叢誌』第四十一号北斎履歴備考に、二代二代宗理の名は、全く北斎の名として可ならんかとあるは、非なり。二代宗理は、北斎にして、三代宗理は、宗二なり。『古画備考』に拠れば、北斎は、三代宗理にして、宗二は、四代宗理なり。蓋し北斎は、二代と自称せしにあらず。後人の名づけたるなるべし。且北斎は、菱川宗理と称し、宗二は、俵屋宗理と称せるなり。この俵屋宗理が画きし、『草花衣の香』は、寛政十二庚申正月の著述にして、翌享和元辛酉年八月の出板なり。即宗二が宗理の名を譲られし翌年の著述にして、其の画はもとより生花をかきたるなれば、筆意をみるに足らざれども、熟視すれば、師に劣れること喋々の弁を竣ざるなり。又按ずるに、四代宗理、後に菱川宗理と称せり。此の頃完知の印ありて、菱川宗理と落款せる美人画の一幅を見たり。書賈村幸の所蔵。『類考』書入に、三馬云く、三代宗理は、初宗二と呼べり。後年俵屋を改めて、菱川宗理と名のるとある、即是れなり。又この宗理が画きし文化四年板、『駅路春鈴菜物語』の奥附に菱川宗理画とありて、俵屋宗理の印を押了せり。これ其の始め俵屋といひ後に菱川と称へたる一証とすべし。此の頃よりして錦画を画かざりしが、よく狂歌摺物を画き、又草双紙を画き、又自戯作をなす。作名を時太郎可候といふ。锦画、锦绘:简单说浮世绘一种,名称来源是“颜色鲜艳不输织锦”,多色彩木版画,发源地是江户,今东京地区。请参照今日发布另一篇文章《浮世绘彩色版画的变迁、锦绘的制作过程》。撰文、翻译 / 江洁