《葛饰北斋传》饭岛虚心著⑱ 画巨幅画的日本人、画全景图的美国人
文摘
文化
2024-07-21 11:23
日本
灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。红色是我的补注。
之后北斋在本所合羽干场,用上文那种大画纸绘制巨马图;又在两国回向院画了巨幅布袋和尚。据说此时暂用画号锦袋舍。按:过去京师净福寺名古涧的僧侣(古澗明誉、江户时代中期画僧,活跃于日本江户时代早中期的净土宗僧侣、画僧,他是京都报恩寺的第15任住持,誉号“明誉”、道号“虚舟”、法号“古磵”,所以僧名是“澄莲社明誉虚舟古磵”。仰慕狩野永纳门派、后雪舟风,画人物山水。)擅画巨幅画。江州人高田敬辅(江户时代画师,本名“徳左卫门”,号“敬辅”。別号眉间毫翁、竹隐斋、梅桃老人,先师从狩野永真后跟古涧学画终自成一家,水墨画好,佛像亦精妙。)据说跟着古涧学习画超大画至晚年。自来超大画的画法另成一家,并不是一般画工谁都能画。北斋是如何掌握其画法的呢?就是古涧、敬辅,并未听闻他们画过这般尺寸的巨幅画。美国人约翰
· 班瓦德(John Banvard)在三英里的帆布(画布canvas)上平面描绘了密西西比(Mississippi)三千里风景此事载于1856年版美国人科多勒所著修身书,这画被称为世界第一巨幅画,在我国,画这种超大尺寸画作实际上是从北斋开始。据《逸人画史》,古涧和尚是京师净福寺的住持,擅丹青,绘制最大尺寸的图画的技巧高超,存世的作品有京师妙心寺的涅槃像。古涧还有水墨画《七福神图》以及《大黑像》大黑天,七福神之一,世间称“古涧大黑”。他在巨幅画的技巧和成就非其他人所能企及。高田敬辅是江州日野杉人,制茶为生计。幼时喜欢画画,仕水口侯。侯让狩野永真做敬辅的老师侯使狩野永真爲敬辅师。壮年回故乡,终于以画为业。善画的名声在外,富士山题材查找题名“富峰”画,画的都是富士山,但没把握富峰=富士山是否一定成立的画作、鲇鱼等画作已颇得世人珍玩。后跟随净福寺古涧和尚学习巨幅画画法。有竹隐斋、眉间、毫翁几个画号。有子名三径,继承父业、维护家族名声未及衰落。
其の後本所合羽干場に於きて、前のごとき大紙に、馬を画き、又両国回向院にても、布袋の大画を画く。此の時仮に名を改めて錦袋舎といふ。按ずるに、昔時京師浄福寺の僧古澗といふ者、大図を作るに巧なり。作るに巧なり。江州の人高田敬輔、晩年に至り、古澗に就き、大画の法を伝はりしといふ。従来大画は、別に一法ありて、尋常の画工の能する所にあらざるなり。北斎如何にして、其の法を知りたるや。古澗、敬輔といへども、未だ此の如き大図を画きしを聞かざるなり。米国の人バンバード氏は、帆布三英里の平面に、密悉比、三千里の風景を画きて、世界第一の大画と称せられしをきゝしが、一千八百五十六年板米人コードレー氏の修身書に出づ。我か国に於きて、絶大の図を画きしは、実に北斎をもて始とす。『逸人画史』に、古澗和尚、京師浄福寺の住持たり。丹青に巧なり。最大図を作るに妙なり。今存せるは、京師妙心寺の涅槃像なり。又草画大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画。南画に多い。に七福神および大黒の像あり。世に古澗の大黒と称す。其大図に至りては、余人の企及ぶ所にあらず。高田敬輔、江州日野杉の上の人なり。製茶をもて活業とす。幼にして絵事を好めり。因て水口侯に仕ふ。侯狩野永真をして、是が師たらしむ。壮歳に及び、古里に帰省して、愈此業をつとむ。善画の聞あり。富峰および鮎魚、鯉魚等の画は、人の珍玩する所なり。後浄福寺の古澗和尚に就き、大画の法を学べり。竹隠斎、眉間、毫翁の数号あり。男を三径といふ。父に継ぎて家声をおとさず。撰文、翻译 / 江洁