灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。
曾应约绘制五月鲤鱼旗(日本人的习俗,每年五月五男儿节,家里家外挂鲤鱼旗、装饰日本长刀)。宗理立马调化颜色画了一幅钟馗给这人。约画的人大悦,赠银二两作谢礼。这二两银钱对当时窘困之极的宗理而言可就是至上的宝物,北斋日后成就一世画名,说源自这二两赠金也不为过。试想,彼时宗理日日为生计苦,忽得此巨金,让他顿改心意,福至心灵,誓要终生做画工。由此清早拿起画笔、一直到半夜四周回归静寂,仍旧不辍笔、一心向学,直至腕累眼疲,这才放笔,吃荞麦面两碗,然后就寝。另有说北斋一个习惯保持到死,睡觉前必定吃荞麦面。据第三代丰国的妻子。宽政(1789-1801)初年,春朗专画通笑、京传和马琴等人的戏作草纸插图。按:京传,磐濑氏,名醒,字酉星,号醒醒斋。另有山东庵、菊花亭等几个号,通称京屋传藏,住京桥银座一丁目,卖烟管烟包、制药为生。自幼喜好游记、小说,写书数百部。世称戏作中兴之祖。拜北尾重政学画,画号葎斋政演。文化十三年九月七日死去,时年五十六。他的生平在《戏作者略传》中有详细介绍。至于马琴,我们将在后文提到。
京传:山东京传,江湖后期戏作者,长黄表纸、洒落本制作。
马琴:即曲亭马琴,滝泽氏,名解,江湖后期戏作者,长读本制作。
戏作草纸:带插图的册子。
北尾重政:江户后期浮世绘师,以严谨率直风著称的北尾画派开山祖。
五月幟の画を請ふ、(邦俗五月五日は男児の祝日にして、此の日幟太刀など飾るを例とす)。宗理直に朱をとき、鐘馗の図を画き与えしに、此の二両の金は、貧困せる宗理の身にありては、実に無上の宝貨にして、他日画名を一世にならすも、此の贈金あるによりてなり。さて、宗理は日々生計に苦しみしが、此の金を得しより、忽志を一転し、妙見を祈り、生涯画工をもて世を終らんことを誓ひたり。これより日々朝まだきより筆を採り、小夜ふけて人の寝静まる頃に至り、夫より更に己が志す所を学び、腕痿へ眼疲れて、総〈筆を止め、蕎麦二椀を喫して臥す。或は曰く、北斎死に至るまで、寝に就く前には、かならず蕎麦を喫するを例とせしとぞ。三世豊国の妻の話。寛政の初年、春朗専通笑、および京伝、馬琴等戯作の草紙を画く。按ずるに、京伝は、磐瀬氏、名は、醒、字は、酉星、醒々斎と号す。又山東庵、菊花亭等の数号あり。通称京屋伝蔵。京橋銀座一丁目に住し、煙管煙包および製薬を売りて業とす。幼より稗史小説を好み、著作数百部あり。戯作中興の祖と称せらる。又画を北尾重政に学び、葎斎政演といふ。文化十三年九月七日死。年五十六
。事は、『戯作者略伝』に詳なり。馬琴の事は、後に載す。
撰文、翻译 / 江洁