《葛饰北斋传》饭岛虚心著⑪ 北斋与司马江汉

文摘   文化   2024-06-02 22:21   日本  

灰色字是作者饭岛虚心加注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。紫色是我加的注释。

中译

那之后追慕堤等琳的画风,投内记住吉广行住吉广行是住吉派绘师,内记是中务省官名门下,学习土佐风画法;还投司马江汉门下学习西洋画;也学习明朝人的画法。

按:《类考》记载堤等琳这个名号传承三代,都是天保年间的人。北斋追慕的是第十三代雪舟之孙、第二代等琳,名吟二,原来的姓是月冈。

《晓斋面谈》有记载:堤等琳乃初代孙二,安永年间人《增补类考》记载:俗称孙二,是“聋等琳”、堤派元祖。

据雕刻工胜友:北斋壮年时与第三代等琳是朋友,某日两个人一起游品川的妓楼,流连游戏其中。楼主向俩人求合笔画,等琳画了车,北斋给车上画了花篮,下笔染色绝妙非常。可惜楼名如今已经无法查考。第三代等琳的生平在《类考》中有详细介绍。

又按:住吉广行(内记)就是那个俵屋宗理百邻师从的广守之子。据《古画备考》,广行号内记景金园,文化八年死去,享年五十七岁。

又按:司马江汉,名俊,字君岳、春波楼。号不言道人。俗称不详。画法从狩野古信以及宋紫石。《类考》说他是铃木春信门下、还有说法是第二代春信,这些说法都不对。《司马江汉后悔记》中有记:《浮世绘·编年史》引用过这段话。“前略。那个时候有一个名为春信的浮世绘师,他描绘当时的女子风俗,画得很好。四十几岁时忽然病故。我仿制他的赝作,拿到出版行去刻印,没有人说是赝品。世人把我当作了春信。”初时住在芝町,后搬至桥本町。《洋学年表》中记述,司马因为居住芝町而取其氏“司马”日语司马与芝同一个读音,しば,shiba.名字江汉,从他的著书考虑,他曾居住芝町三缘山境内、或者是日影町一带,大致推理,因为住在芝町把司马当氏用了。按:当时癖好仿唐风,取其读音。宋紫石一门这类名号很多,比如,诸葛蓝、董九如等。后到长崎,学习西洋画法后回到江户,成一家画风。他的画风行世间。文政元年十月二十一日死去,享年七十二岁。临死前画自画像、上题辞世句:江漢が年がよつたで死ぬるなり、浮世にのこす浮絵(用很强烈的远近法绘制的画作)一枚。江汉上了年岁 不久将死去 留给身后一枚浮绘。西洋画法传入我国推测在天文1532-1555永禄1558-1570年间,江汉之前该画法尚属不详,至司马江汉精密的西画骨法才开始传播。油画、铜版画,都是司马氏的传播内容。他有一本日记记录去长崎学画的经历,出版后书名《画图西游谈》,书中插花既不是日本画也不是西画,画出的是一种意境,很是美好。他另有著述《西洋画谈》。

宋紫石:楠木雪溪,江户画家,在长崎学习南岭派,后跟清国人宋紫岩学画改名宋紫石。长花鸟画。

铃木春信:浮世绘师,宝历时期(1751-1764)开始作画,明和期最活跃,明和初期参与大小历制作,对多色印刷锦绘的开发贡献颇多。以楚楚可怜、文艺抒情的美女画自成风格。

司马江汉:今天同时重发我的旧文《司马江汉:画号中国风,却是日本铜版画第一人》,请参考。

《江汉后悔记》:指司马江汉随笔集《春波楼笔记》(1811)中《江汉后悔记》,记述有关自己所属画系、父母等。虚心从《浮世绘编年史》引用。

原文
其の後堤等琳の画風を慕ひ、又住吉内記広行に就き、土佐風を学び、又司馬江漢に就き、西洋画を学び、又明人の画法を学ぶ。
按ずるに、『類考』に載せたる堤等琳は、三世にして天保年間の人なり。北斎の慕ひしは、かの雪舟十三世の孫と称せし、二世等琳なるべし。二世等琳は名は吟二。本姓は、月岡。

「暁斎面談』に、堤等琳初代孫二安永中とあり。『増補類考』に、俗称孫二、聾等琳といふ、堤流の元祖なりと。

彫工勝友の話に、北斎壮年の頃、三世等琳と友たり。一日共に品川の妓楼に遊び、流連して戯れに画きたり。

楼主二人の合筆を請ふ。等琳は車を画き、北斎は、其の上に載せたる花籃を画く。染筆絶妙なりとぞ。今楼名を失す。惜むべし。三世等琳の事は、『類考』に詳なり。

又按ずるに、住吉内記広行は、かの俵屋宗理百隣が師とせし広守の子なり。『古画備考』に、広行は、内記景金園と号す。文化八年死す。歳五十七。

又按ずるに、司馬江漢、名は、俊。字は、君岳、春波楼。又不言道人と号す。俗称詳ならず。画法を狩野古信および宋紫石に学ぶ。『類考』に鈴木春信の門、又二世春信とあるは、非なり。「司馬江漢後悔記」に、『浮世絵編年史』引く所。前略其頃春信といふ浮世絵師、当世の女の風俗を描くを妙とせり。四十余にして俄に病に死せり。予此の贋物を画きて、版行に彫りけるに、贋なりといふものなし。世人予をもて春信なりとす云々」とあり。始め芝に住し、後に橋本町に移る。《洋学年表》に、司馬の氏は、芝に住ませし故に称すと。江漢が著書に就き考ふれば、芝三縁山境内か、同所日影町辺に住せしことは、明なれど、芝に住せし故に、氏を司馬と称せしこといかにや。按ずるに、唐風を学ぶの囃よりして称せし氏なるべし。宋紫石の門には、此の如き名多し。諸葛監、董九如の類なり。後に長崎に至り、西洋の画法を学び、江戸に帰り、一家をなす。其の画大いに世に行はる。文政元年寅十月廿一日死。年七十二。死に臨み、白肖像を画き、辞世をよむ。江漢が年がよつたで死ぬるなり、浮世にのこす浮絵一枚。我国西洋の画法を伝へしは、蓋し天文永禄の頃なるべし。されど其の法詳ならず。司馬江漢に至りて、始めて精密なる西画の骨法を伝ふ。かの油絵および銅版の類、またみな同氏の伝ふる所なり。其の長崎に赴きし時の日記あり。『画図西遊譚』といふ。書中の挿画は、和画にあらず、西画にあらず、一種の筆意、甚妙なり。又『西洋画談』を著はす。

撰文、翻译 / 江洁

京夜围炉
公众号“京夜聊”姐妹账号,几位长年定居海外的作者絮叨海外生活。
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