《葛饰北斋传》饭岛虚心著㉒ 北斋与曲亭马琴合作翻译出版《水浒传》

文摘   文化   2024-08-18 16:29   日本  

灰色字是作者饭岛虚心加注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。红色是我的补注。

中译
为将军作画之后北斋名噪四方,求画的人接踵而至,负笈而至拜师求学的人也一天比一天多。然而北斋依旧贫困如故。

文化四年江戸麹町书肆角丸屋甚助出版《新编水滸画传》。这本书由曲亭马琴编译,北斋插画。

按:据《戏作者略传》,曲亭馬琴名解,字琐吉,姓泷泽,通称清右卫门,在元饭田町中坂下做家守役代理店主、代理房东等等代理人,后移居神田明神下同朋町与儿子宗伯松前侯的医师同住。文政七年(1824)时,剃发、自号篁民。后居住四谷信浓,嘉永元年(1848)十一月六日死去,享年八十二岁。文化文政年间的小说大家,他著述中《里見八犬传》、《美少年录》、《椿説弓张月》、《朝夷巡岛记》、《侠客传》、《倾城水浒传》一类,以及《燕石杂志》、《玄同放言》等书还在世间流传。其中《水浒画传》的翻译本是书肆的委托,但马琴颇有自己主动进展翻译的得色,该书卷首《译水浒传》一文写道:“上略我曾废寝忘食秉烛夜读《水浒传》,该书叙述、变化精妙、婉转出奇,自然天成,尽作者一生精神、竭半世英气,称文章一大家,其他著书无法同日而语。因此白头宿儒到底是烦恼。况且以我之管见,要翻译此书,很是犹豫。尽管这样,写书著述乃我所爱,水浒亦我所爱,心存这两种想法,(翻译一事)就如鸡肋按:虚心用了“鸡肋”一词,似词不达意并没有固辞到扭捏装假。再三受托之余,终于决定接受请托(翻译此书)”,即便宿儒也认为翻译有相当难度的书,我把这本书译成日文,心下难免稍有得色。既然有了满意的译文,插图就不能不挑选上品了。


原文
これより北斎の名、四方に噪しく、画を請ふ者、踵を接さして至り、笈を負ひ来り学ぶもの日に多し。然れども北斎の貧、猶旧のごとし。

同四年江戸麹町の書肆角丸屋甚助、「新編水滸画伝』を出板せり。この書は、曲亭馬琴の編訳にして、北斎の挿画なり。

按ずるに、『戯作者略伝』に、曲亭馬琴は、名は、解、字は、瑣吉、滝沢氏、通称清右衛門、元飯田町中坂下の家守役なりしが、後に男宗伯松前侯の医師と共に神田明神下同朋町に住す。文政七年の頃、剃髪して篁民といふ。後四ツ谷信濃坂に住し、嘉永元年十一月六日死、年八十二とあり。文化文政年間の小説家の大手なり。其の著述の世に聞へたるは、『里見八犬伝』、『美少年録』、『椿説弓張月』、『朝夷巡島記』、『侠客伝』、『傾城水滸伝』の類にして、『燕石雑誌』、『玄同放言』等の書、また世に行はる。此の『水滸画伝』の翻訳は、馬琴書肆の依頼によりて、訳せしものなれど、自進みて暗に得意の色あるがごとし。其の巻首、『訳水滸弁』に、「上略予嘗水滸伝を読むに、食を忘れて厭ふことなく、燭を秉て倦む時なし。この書や変化の妙、宛転の奇、おのづからしかるものにして、作者一生の精神、半世の英気を竭し、文章一家をなして、他書と同じからず。こゝをもて白頭の宿儒、なほこれを病めり。況予が管見をもて、此書を訳すは、いと影護し。しかはあれど、著述は、予が好むところ、水滸も又予が愛るところ、事二ツながら鶏肋にして、按ずるに、鶏肋の字を用いる、当たらざるがごとし。固辞に誑くまでせず。乞はるゝこと再三にして、漸くうけ引つ」とあるは、宿儒と雖、訳し難きものなるを、予はこれを訳し得たりとて、少しく誇れる色あるが如し。既に得意に訳し来りたれば其の画もまた精図を撰ばざるを得ざるなり。

撰文、翻译 / 江洁

京夜围炉
公众号“京夜聊”姐妹账号,几位长年定居海外的作者絮叨海外生活。
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