《葛饰北斋传》饭岛虚心著㉑ 北斋在幕府将军面前脚踩薄冰炫画技
文摘
文化
2024-08-11 07:44
日本
灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。红色是我的补注。
彼时徳川将军家齐公徳川十一世文恭院殿。听说了北斋的妙技,放鹰途中把写山楼文晁(谷文晁,江户后期画家)和北斋叫到浅草传法院,席间让两人作画。文晁先画。按:将軍家惯例毎年十二月放鹰捕鹤,将鹤献予朝廷。因此将军不时出门到野外放鹰、驯鹰捕鸟。接下来轮到北斋,只见他走到将军面前,面色从容毫无惧色,挥笔画上花鸟山水。左右无人不赞叹。之后北斋把长唐纸放横,用笔刷刷出一道长长的蓝色,再从带来的鸡笼中将鸡抱出,捉住鸡脚摁在印泥上,然后在画纸上改了一个鸡爪印,说,“这是立田川风景”,说完拜一拜就退出去了。在场的人都为他做法奇特而惊愕。此时候在一旁的写山楼手里捏了一把汗。写山楼语。按:写山楼文晁姓谷,通称文五郎,画号学斋,天保十二年(1841年)死去,是汉画中世纪一些画家,如拙、周文、雪舟等人,他们的作品受镰仓时代以后传入日本的宋、元画风影响,区别传统的大和绘,被冠名“汉画”。日本的中世纪指平安时代后期(11世纪末)至战国时期(16 世纪)之间约500年时间。大家,他的生平可以在很多著书查找,此处略去。立田川又写作龙田川,水源在大和国平群郡,下流处与初濑川合流后汇入河内,成为大和川。“坐爱秋晩枫林”的名景点,古来很多歌人咏诗唱和。北斋绘制的这幅画就是红枫点在立田川景色,古来常见的绘画题材。又按:德利茶盅、鸡蛋等种种器具,什么都被北斋拿来蘸墨画画,确实是奇技,很少见。然而还不足以让画家自己以为奇,因而抱出鸡来用鸡爪盖印。人有情而物无情,有情的人画无情之物,至难。借无心的鸡、画无情的画,实在妙,实在奇。这段话真妙。露木氏说,将军府内部得到将军要一观北斋妙技后,预定日子之前七八天前开始限制北斋行踪,不得擅自离家。而事实上能够在将军面前献技是莫大的荣光,北斋也非常高兴,但要不断检查、纠正自己的觐见礼节,又觉得枯燥拘谨很是困扰。
時に徳川将軍家斉公徳川十一世文恭院殿。北斎の妙技を聞き、放鷹の途次、写山楼文晃および葛飾北斎を浅草伝法院に召して、席上画を画かしむ。文晃先づ画く。按ずるに、将軍家毎年十二月鷹を放ち鶴を捕へ、朝廷に献ずるを例とす。故に将軍時々野外に出でゝ、鷹を放ち、これを馴らし、鳥を捕ふなり。次ぎに北斎、将軍の前に出で、従容として、おそるゝ色なく、筆を揮って先づ花鳥山水を画く。左右感嘆せざるものなし。後に長くつぎたる唐紙を横にし、刷毛をもて長く藍を引き、さて携へたる鶏を寵中より出だし、さらに捕へて、趾に朱肉をつけ、これを紙上に放ち、趾痕を印残せしめ、是はこれ立田川の風景なりとて、拝一拝して退きたり。人皆其の奇巧に驚く。此の時写山楼傍にありて手に汗を握りしと。写山楼の話。按ずるに、写山楼文晃は、谷氏、通称文五郎、画学斎と号す。天保十二年死す。漢画の大手なり。其の詳細は諸書に見えたれば、略す。立田川は、一に竜田川、其の源は、大和国平群郡より発し、下流初瀬川と合し、河内に入り、大和川となる。秋晩楓樹を賞するの名所にして、古人和歌に詠める多し。北斎が此の図は、即楓葉、立田川に、点ずるの景にして、古来よく人の画く所なり。又按ずるに、北斎磁壜鶏卵および諸器具、何にでも墨をつけて、諸図を画く、奇といふべし。然れども自以て奇とするに足らざるなり。故に鶏を放ち、楓葉を印せしむ。凡有情の人、無情の物を画くは、極めて難し。今無心の鶏をかりて、無情の楓葉を画く、真に妙なり、真に奇なり。露木氏日く、将軍北斎の妙技を一覧せらるゝ内命ありし時、七八日前より、家主北斎の一身をあづかりて漫に外出するを許さず。実に将軍の前に出づるは、無上の栄誉なれば、北斎も大に喜びしが、礼儀を正し、窮屈なるには、殆困却せしとぞ。撰文、翻译 / 江洁