《葛饰北斋传》饭岛虚心著⑮ 北斋不肯回应客人临时议价,原来是爱国情怀
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文化
2024-06-30 19:25
日本
灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。红色是我的补注。
这个时候具体日期不详,北斋住在本所林町三丁目家主甚兵卫店里那段时间。有荷兰来江户的某船长委托北斋画一套我国城镇居民人体系列,刚出生时候的、一年一年成长中的、学校里的孩子们的、上了年纪逛游廓的人的、老死行葬礼的人的身体等,男人女人图鉴各一卷,约定谢礼50两银子。船长属下、某医生也向北斋预订同样两卷套画。北斋(两个人的预约都)应承了,费时多日画好后携四卷画前往两个人住的旅馆。船长按照约定支付了一百五十两银子,收下两卷画。之后北斋找到医生,医生却说,我挣的比船长少,付不起跟船长一样多的画酬,理应将两卷画的画酬减半至75两银子。北斋听了有些生气,说,有这样的想法为什么不在预订画册时说清楚?同样的构图,可以在上色等等步骤略施删减,绘制成七十五两银相当的画作。如今画都画好了,不应该再说这样的话。而如果七十五两银交货与你,那就意味着向船长收取了相当高价的酬金,这让我如何心安。医生听了于是说,那么我只收两卷中的一卷、那卷男子套画好了。这个时候,如果是一般的画工应该会依言把其中一卷交给对方,然而当时家里跟赤贫如洗没两样的北斋气愤对方违背诺言,收起两卷画放回怀中,径直回家去了。家里帮佣的妇人知道缘由后,劝北斋,虽说这画作日夜发奋绘得,但是这样的作品在我们国家并不是稀罕东西,不卖给他们以后也没人会买。算算用去的时间和费用,明知七十五两银吃了大亏但把画给他仍旧是上策。有那七十五两银,没道理贫苦之上还是贫苦。北斋不说话沉默了好一会儿才说道,我怎么会不知道日日为贫苦所迫,但是那个外国人违背前约,若顺了他的意,即使我自己回避了损失,我们日本人以后就逃不掉被外国人嘲笑“虚报价钱”、乱收钱了。我往深处思忖过了,所以把画又原样带回家来了。后来翻译听说了这件事,把事情经过报告给了船长,船长深受触动,立刻拿出一百五十两银子请求北斋把那两卷画卖给自己,后携画回国了。这个故事在《古画备考》里也有记载。那之后来自荷兰的画约很多,每年总数达数百幅,都经长崎运往海外,后幕府担心因此泄露国家机密而禁止向国外售画。
此の頃年月詳ならず。北斎本所林町三丁目家主甚兵衛店に住ませし頃なり。江戸に来りし和蘭の加比丹某、我国町人の小児出産の体を始として、年々成長の体、筆算稽古の体、又年たけて遊里などへ通ふ体、又年老ひて死去し、葬礼を行ふの体を図し、男子女子と一巻づゝ、二巻に画かんことを北斎に依頼し、金百五十円の謝礼にて、約定せり。加比丹附属の医師某も、亦同図二巻を画かんを乞ふ。北斎諾して、数日間にこれを画き、さて四巻の図を携へて、旅館に到りしに、加比丹は、約それのごとく百五十金を出だし、二巻を受納せり。夫より医師の許に到りしに、医師の日く、予は加比丹と異なり薄給の身なれば、同等の謝礼はなし難し、半減即七十五金にて、二巻を与へ給ふべし。北斎少しく憤りて日く、何故に最初に、其の事を明し給はざるや。画は同じくても、彩色其の他を略すれば、七十五金にでも画かるるなり。既に画きたる上は、今更なすべきなし。又これを七十五金にて進ずるときは、加比丹に対し余り高価を貪りたることに当り、心苦しき限りなり。医師の日く、されば二巻の中、男子の図一巻を七十五金にて与へ給へと。此の時尋常の画工ならば、諾して一巻を与ふべきに、赤貧洗ふがごとき北斎、其の約に背きたるを慣り、二巻共に懐にして、直に家に持ちかへれり。家婦其の故を聞き、諌めて日く、日夜丹精を凝らし画き給へる画巻なれど、此の図我邦にては珍しからぬものなれば、売らんとするも、買ふ者なかるべし。時間と費用を算すれば、損失なれども、七十五金にて、医師に与へ給ふが、得策なるべし。今七十五金を得ざれば、貧苦の上に、貧苦をかさぬるの道理ならずや。北斎黙して辞なく、暫ありて日く、予も亦其の貧苦の日に迫るを知らざるにあらざるなり。されど外国人の約に背きしを、其の通りになしおく時は、自分の損失は,免るゝとも、我邦人は人によりて掛直をいふとの嘲りは蓋し免るゝ能はざるなり。故に予は深く其の所を考へて、持ち帰りしなりと。後に訳官某此の事を聞き、加比丹に語りければ、加比丹も深く感じて、直に百五十金を出だし、かの二巻をも請ひ得て、本国に持ち帰りしとぞ。此の一条は、『古画備考』にも出づ。其の後和蘭より画を請ふ者多く、毎年数百葉を画きて、長崎に送り、海外に輸出せしが、後に幕府国内の秘事を漏すをおそれ、これを禁止せり。撰文、翻译 / 江洁