灰色字是作者饭岛虚心加的注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。红色是我的补注。
按ずるに、『泰平年表』に、阿蘭陀肥前長崎に来舶し、商を通ぜし始は、足利氏の代、織田豊臣両家の時、暫絶へて、慶長五年諸国一統に帰せし年、泉州の堺浦に来る云々。阿蘭陀江戸へ参上の事の始は、松浦氏の家来差添さしぞいて、毎年冬平戸を発し、翌年正月営に登り、御礼申。寛永十八年、長崎に移してより以来は、奉行より検使幕府官职,检证事实的使者、与力江户时代的与力为辅佐町奉行的一种官职,类似于现代的警察署长、同心江户时代幕府的下级官员,在与力管理下担当维护城市治安的职责。类似于现代的警察。通詞又写作通事,是日本江户幕府时接待外国人和翻译的人员,主要有中国语通事和荷兰语通事。此职业始于与葡萄牙人贸易往来之时。通事的职责不仅限于翻译,也有外交、商务方面的工作、以下数十人、差添下る。時節、前に同じ。寛文元年より、毎年正月十五日、長崎を発し、登営二月の末三月となれり。寛政二年より是まで阿蘭陀船二艘のところ、一艘になる。亦銅も、百万貫の処、六十万貫に減じ、毎年江戸に参上も、五年目と成云々。寛政二年より五年目とあれば、此の一話は、蓋し同七年か、同十二年の頃なるべし。今加比丹の名を失す。惜むぺし。明治二十三年八月三十日の『朝野新聞』に、寛政十年四月廿四日、阿蘭陀の船将軍艦や船舶の指揮者。 艦長や船長をいう。以思別尓辺米(イースベルへンメル)Gijsbert Hemmij(1747-1798.6.8)といふ者、幕府へ伺候の途、渇病に罹り、遠州掛川の客旅に死亡し、翌廿五日同所天然寺に葬ると、寺記に見えたり云々。此の人或はかの画を北斎に依頼せし加比丹か猶考ふべし。
按ずるに、和蘭人江戸に来れば、本石町四丁目、長崎屋の家を旅館とするを例とす。長崎屋は、幕府の用達なり。北斎が画きし享和二年板、『画本東都遊』中四葉に、長崎屋の図あり。就きて、みるべし。
撰文、翻译 / 江洁