《葛饰北斋传》饭岛虚心著⑩ 狩野融川是不是因为北斋多嘴而自杀?

文摘   文化   2024-05-26 23:02   日本  

灰色字是作者饭岛虚心加注,他用比正文小的字体夹在正文里,以补充资料。

中译
宽政五、六年的时候,正值再修日光神庙幕府将军德川家康的庙。狩野融川带着门人、还有町绘师几个人在庙中负责描绘。宗理也在随行之列,到达宇都宫时,旅亭主人向融川求画。融川当即取笔画了一幅儿童拿长杆打柿子的图画。宗理旁观融川作画,私下评议说,“那算什么?画理不通,竹竿头戳过头,早已掠过柿子很远了。
然而童子驻足,这到底是要表达什么意思?”同伴把宗理的话报告给融川,融川震怒,说,“这张画,本来就是要把童子智机不足、憨直可爱的模样展现出来。这样的深意他哪里懂?!却妄加评议。可恶!”立即将宗理逐出。宗理独自回到江户。据《类考别本》、《绘画丛志》

按:《古画备考》中有记载:“狩野融川名宽信,最初称‘友川’,是狩野常信二子狩野岑信(号随川)之后、狩野闲川的儿子。宽政四年十二月继承家业,文化五年被授予‘法眼’称号文化十二年三月十九日死去,享年三十八岁。”又一说此人入门当时的狩野家,成为画界屈指可数的名手,一日受邀某诸侯(江户大名),回家路上在轿子中切腹自尽(狩野融川切腹一事在《今古雅俗 石亭画谈》初篇卷下篇中有记述“愤懑杀身 狩野融川”)


狩野常信:幕府御用绘师。

法眼:这里的法眼是绘师的称号之一,取自僧侣的法眼。

原文
同五六年の頃、日光神廟徳川家康公の廟の再修ありて、狩野融川其の門人および町絵師数名を随へ、廟中の絵事に従事せり。宗理又随ひ行き、宇都宮に到りしが、旅亭の主人画を融川に請ふ。融川即筆を採りて、一童の竿を持ちて柿をおとすの図を画く。宗理これを見て、窃に評して日く、「何ぞ画理に疎きゃ。竿の端、既に遥に柿の所を過ぐ。

然るに童子猶足をつまだつ。果して何の意ぞ。」同行これを融川に告ぐ。融川怒りて日く、「此の図は、もと童子の智なくあどけなきを示せるなり。彼の知る所にあらず。然るにこれを誹る。甚憎むべし」とて、直に宗理を追ひ出だせり。宗理独江戸に帰る。『類考別本』および『絵画叢誌』に拠る。

按ずるに、『古画備考』に、「狩野融川名は寛信、始友川と称す。常信の二子随川岑信の後、閑川の子なり。寛政四年十二月家を継ぎ、文化五年法眼に叙せられ、同十二年三月十九日死す。年三十八」とあり。一説に、此の人当時狩野家の中に就き、屈指の名手なりしが、一日或諸侯に招かれ、帰路輿中にて、屠腹して死せりと。


撰文、翻译 / 江洁

京夜围炉
公众号“京夜聊”姐妹账号,几位长年定居海外的作者絮叨海外生活。
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