(《闻道长安》第一版封面)
法国画家雷米·艾融说过一句话:一切艺术诞生于约束,死于自由。用在写作上,相似的话,贾平凹说过,木心也说过。——说得更平明一些就是“不成规矩、难得方圆”。在小说文本上,这种所谓约束,就是风格。许多作家有作品但是未必有自己的风格。
初次阅读《闻道长安》的时候,我一直在想:这究竟是一部什么风格的作品呢?也许有读者会和我一样首先想到了卡夫卡,想到《变形记》或者《城堡》。在那个时代,卡夫卡为世界文学开拓了新技法、新境界,直到当代依然受人追捧。可见艺术的创新多么富有魅力。象征主义、表现主义、达达主义、魔幻现实主义……一个作家完成一部作品后,他没有义务为作品做出解释。解释是评论家和读者的事。
《闻道长安》是一部极具探索性的小说,它的实验性远超它的艺术性和所谓社会意义,不妨比较一下:《变形记》手法是死板的、拘谨的,《闻道长安》是跳跃式的,灵活多变的。卡夫卡的文风带着阴森森的色调,弥漫着悲观主义情绪。萧迹则是一派世事洞达的逍遥,嬉笑怒骂不成体统。卡夫卡的荒诞是人为的、对那个时代的隐喻和象征。萧迹的荒诞则是,时代已然充满着荒诞不经的事,人在金钱和物质的社会早就被逼无奈地异化了。
主人公“我”是我,但不是唯一的我,可以是趣缘斋主人萧迹,可以是李白、苏东坡这样的名流,也可以是一个白胡子老头、一具躺在棺材里的干尸、甚至可以是一条狗……读者在适应了“庄周梦蝶”、《三体》和《盗梦空间》的科幻之后,就可以无障碍接纳《闻道长安》里的“四维空间”理论。在四维空间里,时间不存在,主人公我是醒着做梦,从大唐天宝年间到公元2050年,让自己在虚拟的时间的空间里自由穿越、置换。时间变成了“平行的”有质感的光:
“我的大脑缝隙里传出一束亮光,光带上飘着一个羽毛的羽字”于是作者的笔端就出现了垓下之战项羽拔剑自刎的场面、出现了败走麦城的关羽断头的场面。
自称是我的白胡子老头和我一番辩论之后化作一道亮光飞进不远处的产科医院,消失在一个正在分娩的孕妇身边,于是传来婴儿一阵嘹亮的哭声。
……
一言以蔽之,《闻道长安》写的是一个梦,一个清醒的梦,就像在小说的尾声里,道兄海文说的“一夜跑了几千年。”梦里既有帝王将相、英雄美人、也有妖魔鬼怪,阿猫阿狗。但是《闻道长安》不是现代版的唐传奇、不是科幻版的《聊斋志异》。这是一部手法怪异的的现实主义小说。
当“我”化身李白的时候,面对唐玄宗,我的态度是“为了五斗米,我不得不折腰,我可以陪你傻玩,但绝不会被你玩傻。”
当“我”化身苏东坡的时候,我问好友佛印“我是谁呀?”佛印答“你爱是谁就是谁”,我顿时清醒了。
当“我”和一个漂浮的灵魂探讨信仰的时候,灵魂幽幽地说:“你爱信啥信啥,谁管你哩。”
当我忘记自己是狗的时候,猫指责我“你一个大男人真好意思把自己活成一条没有尊严的狗吗?”
……
(《闻道长安》再版封面)
文章千古事,离不开一个人性。小说里的人物对白句句都是“梦想照进现实”,万变不离人情世故、饮食男女,所以作者可以自由地在时间里穿梭,在角色上转换,任凭时空交错而读者不感到荒诞和突兀。
甚至语言也是当代的流行色,比如:MM、卧槽、SB观众、你TM……甚至西安话也夹杂其中“嘹咋”、“我清楚得很”、“写的是个啥嘛” ……这些要算小说的特色吧,另一个特色是在意识流的笔触下有所为有所不为,比如风景描写,长安东西市也好,兴庆宫也好,华清池也好,凡风景描写几乎都省略了,或者一笔带过,因为影像能捕捉到东西在书中都不费笔墨,留出空间给心理描写和对白。
初读《闻道长安》的时候,读者也许会想到日本作家梦枕貘的小说《大唐鬼宴》(它后来被改编成电影《大唐妖猫传》)二者都有一个诡异的“主人公猫”,梦枕貘笔下的猫是李隆基宠爱的御猫,为赐死的杨玉环不断地复仇。萧迹笔下的猫是替杨玉环悬梁自尽的宫女芍药,死后化身为猫,痴痴地陪伴着变成狗的“我”,这个变成狗的我既是作者萧迹也是李白。小说的前六章我们可以理解为铺垫,是一首交响乐的前奏,从第七章“我变成了一条狗”开始,小说的结构有了可见的轮廓,作者一直在寻找答案,也就是“我”是怎么由人变成狗的,我怎么做才能找回“我”做人的尊严。——这才是这部小说的“硬核”。在物欲横流的当下,尊严和自尊变成了多么奢侈的东西,就像女人的素颜一样难得一见。
但是,每一个章节又不是连贯下来了,迂回穿插,灰蛇草线。出场人物也是散漫的,就像梦里的影像没有色彩一样,小说里的人物隐去了性格,或者说,除了主人公之外,出场人物都不是刻意塑造的,这些真真假假的人和鬼,无不表现出一种“随遇而安”的姿态,是电影里的让人记不住面目的“群演”,是横店影视城周边召之即来,挥之即去的廉价劳动力。
那么,这部小说的意义是什么?——小说需要意义吗?人生本来无意义,何况艺术。这些年,读者已经厌倦了那种高高在上的说教式的作家和作品。有趣、好玩的作品,实属难得了。阅读也是一种消费,值得一读就是一部作品的全部意义了。
四维空间到底存在不存在?在我看来这是个伪概念,是难以置信的、不能自洽的猜想。但是,人生、命运需要解释,需要更多视角观察,于是魔幻小说、科幻小说、怪力乱神小说自古至今络绎不绝。丰臣秀吉的绝命书中,他把自己的人生比喻为“梦中之梦”,给后人许多感悟和启迪。
“闻道长安似弈棋”,漫长的十三朝古都,它在中国历史文化上的存在感太强烈了,读者对《闻道长安》的期待使得作者必须玩出点新花活。还好,这是可以从头到尾一气读完的书,足够爽。从题材到形式都别出心裁,令人耳目一新。古往今来写长安的诗可谓车载斗量,但是我偏偏就李白的《长安夜》“长安一片月,万户捣衣声。何日平胡虏,良人罢远征。”
作者萧迹 摄于银座单向街书店前
編集手帳:長安が月光満ちる (和訳: 小山長州)
フランスの画家レミ・エヨンは、「すべての芸術は制約から生まれ、自由によって死ぬ」という言葉を言ったことがある。文学の方面では、似たようなことを、賈平凹氏も言ったし、木心氏も言った。——もっとわかりやすく言うと「规矩無ければ、方円ならん」と。小説のジャンルでは、その制約というのが風格である。多くの作家は作品を持っているが、必ずしも自分の風格を持っていない。
『聞道長安』を初めて読んだとき、これはいったいどういう風な作品であろうと、ずっと考えていた。私と同じようにまずカフカを思い浮かべ、『変身』や『城』を思い浮かべる読者もいるかもしれない。その時代、カフカは世界文学の新技法、新境地を開拓し、現代に至るまで愛され続けている。芸術の革新がいかに魅力的であるかがわかる。象徴主義、表現主義、ダダイズム、幻的リアリズム……。作品を完成させた作家には、自分の作品を説明する義務がない。解釈は評論家と読者の仕事だ。
『聞道長安』は一部の極めて探索的な小説で、その実験性は、はるかにその芸術性といわゆる社会の意義を超えて、ちょっと比較してみれば:『変身』の手法は堅苦しくて謹直、『聞道長安』の手法は飛躍式で柔軟に変わりやすい。カフカの文体は陰気な色合いを帯びていて、悲観的な雰囲気が漂っている。蕭跡さんは世事に通じた逍遥で、笑ったり怒鳴ったりして既成なルールを無視する。カフカの荒唐無稽は人為的で、その時代のメタファーであり象徴だ。蕭跡の荒唐無稽は、時代はすでに不条理に満ちていて、人は金と物質の社会でとうに仕方なく異質化されているということだ。
主人公の「私」は私であるが、唯一の私ではあるまい。趣縁斎の主人蕭跡であっても、李白や蘇東坡のような名士であっても、白髭の老人であっても、棺に入ったミイラであっても、犬であっても……読者は「荘周夢蝶」や「三体」、「インセプション」といったSFに慣れていくと、『聞道長安』の「四次元」理論をバリアフリーで受け入れることができる。四次元の空間では、時間は存在せず、主人公の私は目を覚ましながら夢を見て、唐の天宝年間から西暦2050年まで、仮想の時間の空間に自分を自由に行き来させ、置き換える。時間は質感のある「平行な」光になっている。
「私の頭の隙間から明るい光が出てきました。その光の帯には羽という字が浮かんでいました」。著者の筆先からは垓下の戦いで項羽が剣を抜いて自刎する場面と、麦城に敗走した関羽が首を切る場面が出てくる。
私と名乗った白ひげの老人は、私と議論を交わした後、少し離れた産婦人科に光となって飛び込んでいき、お産をしている妊婦のそばで消えていくと、赤ちゃんの高らかな泣き声が聞こえてきた。
一言で言えば、『聞道長安』は一つの夢で、そしてはっきりとした夢である。小説の終わりの中で兄の海文が言うように「一晩で何千年を走った。」夢の中には王公将相もいれば、英雄美人もいれば、妖怪もいれば、猫もいれば犬もいる。しかし、『聞道長安』は現代版の唐伝奇でもない、SF版の『聊斎志異』でもない。これは妙なリアリズム小説だ。
「私」が李白になったとき、「私は五斗米のために腰を折らなければならない、あなたと遊んであげても、あなたには決して馬鹿にされない」という態度を持つ。
「私」が蘇東坡になったとき、友人の仏印に「私は誰ですか?」と聞き、仏印が「あなたは誰にでもいいよ」と答えると、即座に悟った。
「私」が浮く魂と信仰について議論していると、魂は「何を信じようが、どうでもいい」と言った。
自分が犬であることを忘れた私に、猫は「あなたは一人前の男が尊厳のない犬のように生きていいですか?」
……
文章は千古の大事で,1つの人間性を抜きにすることはできない。小説の中の人物のセリフはすべて「夢は現実に照らして」で、万変は人情、飲食の男女を離れないので、作者は自由に時間の中で行き来することができて、役の上で転換し、時空の交錯に任せても読者はでたらめと唐突さを感じない。
言語でさえも現代の流行色だ。MM、卧槽、SB観客、TMD……さらに西安の方言にもあちらこちら使っている……これらは小説の特色と言える。もう一つの特色は意識流のタッチでやることが多いことだ。例えば風景の描写、長安東西市であれ、興慶宮であれ、華清池であれ、風景描写はほとんど省略した、なぜかというと、映像ができるように風景は文字で述べる必要がない。
『聞道長安』を初めて読んだ時、読者たちは夢枕獏の小説『大唐鬼宴』(後に映画化された『大唐妖猫伝』)を思い出しやすい、どちらも奇妙な「主人公猫」が登場する。夢枕獏が書いた猫は玄宗が好きなペット御猫で、蕭跡が描いた猫は、楊玉環の代わりに自殺した女官の芍薬で、死後は猫に化けて犬になった「私」に夢中になって付き添う。この犬になった私は、蕭跡であり李白でもある。小説の最初の6章は引き立ての存在で、我々は交響曲の前奏曲と理解してよい、第7章「私は犬になった」から、小説の構造が見える輪郭を探して、著者は答えを探して、つまり「私」はどのように人間から犬になって、私はどのようにして「私」を取り戻す、つまり、人間としての尊厳を取り戻す。──それこそがこの小説の「核」なんだ。物欲横流の今、尊厳と自尊はどんなに赘沢なものになって、女の人の素顔のようにめったに見られない。
でも、一つひとつの章が続いているわけではないから、迂回して、スネークライン。登場人物もだらしなく、夢の映像に色がないように、小説の中の人物には性格が隠されている。あるいは、主人公以外の登場人物は意図的に作られたものではない。これらのまやかしや鬼は、みんな「成り行き」で、都合の良い格安の労働力だ。
では、この小説の意味は何であろうか。——小説に意味は必要だか。人生に意味などないのに、いわんや芸術をや、である。ここ数年、読者はそういう上から目線の説教的な作家や作品に飽きてきた。趣味的、面白い作品はなかなか出にくい。読むことは楽しむことだ、読む価値があることがその作品のすべてだ。
四次元は本当に存在するのか?私から見れば、それは偽の概念であり、信じられない、自洽性のない想像だ。しかし、人生や運命には解釈が必要であり、より多くの視点が必要であり、ファンタジーやSF、怪力乱神の小説は古来から絶えぬ。豊臣秀吉の絶命書では、自分の人生を「夢の中の夢」と表現して、世に多くの気づきや啓発を与えている。
「聞道長安似弈棋」、長い十三朝代の古都は、それは中国の歴史文化の上での存在感が強すぎて、読者は『聞道長安』の期待には作者に何か新しい遊びをさせなければならない。幸い、最初から最後まで一気に読める本なので、十分気持ちいい。題材から形式まで趣向をこらしていて、目も耳も一新する。
昔も今も長安を書く詩は数え切れないほどあるが、私にはあえて李白の『長安夜』に心が惹かれる、月光満ちる長安の夜には:
長安一片月、万戸搗衣音。 (長安 一片の月 万戸 衣をうつの聲)
何日平胡虜、良人罷遠征。 (何れの日か 胡虜を平らげ 良人 遠征を罷めん)
(和訳:小山長州 東亜出版編集長、文学翻訳者)