《大连回想》序言节译

文摘   2024-12-23 06:13   日本  
      周五周六都试着分享一些和旧日台湾相关的史料,做不到了,因为书籍资料本身来自海外,虽然都是中文,但是,,,包括周末杂谈的内容我把昨天的内容当作今日的第二篇了,具体请点击查看。
       周末里说到了最近一个多月开始看的资料,其中一篇的作者序言我觉得有些意义,代表了一部分还在回忆大连的日本人的心境,节译如下。
      
       

很久以前,战前的大连,作为当时在他的土地上度过的人之一,作为我自己的记录留下的话,有什么意义呢

我想即使是一部分也请原谅。一切都是“恶”的话,太过短路了。另外,光靠这样的记录是不能说是真实的。帝国主义、殖民政策这一词汇,在第二次大战后,随着世界的大转换,也逐渐成为历史上的用语,何况殖民地生活等,现在正在化石化。在日本帝国主义的异民族支配、经济剥削主义这一“宏观的恶”中,与异民族共存,勉强维持稳定生活的普通日本人的“微观的善”绝对不是善的。虽然不打算给“化石”赋予特别的意义,但也想包含日本民族生活史上稍微独特的一面的意思来叙述。

但是,关于昭和六年洲事以后的大的叙述,我不得不感到抵抗。在当兴起的国主义风潮中,土地性,正是帝国主下的殖民地的面貌一年一年地墨重彩。件事使我下笔感到很犹豫。如果是十五年期的,我想有很多人留在记忆中,所以我想留在洲事之前的述中。从个意上来标题是“大正到昭和的大”。

洲事之前,感受到了和中国人融洽相气和关怀。学校和家庭也有这样的教育,但事后,特别是洲国成立后,虽然原上是五族和,但现实治者和治者意识变强了。事前,关·大的我日本人,常在哪里有个地方是来自中国的限期租借地的意,我想那个作为对中国人的什么自制心工作着。事洲国成立,洲国的实际情况是,随着日本作一个焦躁国家的性格逐年上升,租借地等意识变得淡薄,帝国主下的殖民地的面貌厚了吧。

如今,在中国代化的推、日中交流的展中,大正在展成一个具有新性格的令人期待的城市,这对们过去的居民来也是一件可喜的事情。最近的新闻报道称,大为经济特区、工特区,甚至市的一部分作旅游特区,期待外国特别是日本的合作、入。那个大日·中两国的交流据点被特写。真是令人高兴的道。希望越来越多的人关注大

希望大家不要会,不管我是在大出生的,是在大连长大的,我都决不能承认过去日本的大陆进入,中国的侵略政策。得一提的是,他对满洲的大地、大的土地、海的留恋之情。我想尽量正确地介的情况。烦恼在于,道不能把热爱的心情仅仅看作是殖民地生活的受益者心理

虽然到了最后,但激继续篇文章的情的是大出身的人作家清卓行关于大的一系列文章。其中《大小景集》、《在大的海》等我的旧记忆变得新。此外,北大路健著的《再·旅》写真集和一张陈旧不完整的大街道了强有力的记忆调,也成了叙述的参考料。意。

        日语原文仅仅经过扫描提取文字,没有经过校正,以上为网络翻译。原文会放在文后。
       他提到的“宏观的恶”和“微观的善”  是一个比较新颖的说法,也许部分人会同意,一部分人会不同意。

かねて、戦前の大連というものを、当時を彼の地で過ごした人間の一人として、私なりの記録として残しておくことには、何らかの意味があるのではないかと思っていた何を今さら植民地の風情をと思う向きもあるかも知れないが、冷静な目で戦前日本の植民地生活の

一部なりとも脁めてもらいたいと思う。すべてが「悪』では短絡的すぎる。また、そういう記録だけでは真実とは言えない。帝国主義·植民政策という言葉も、第二次大戰後、世界の大変換とともに歴史上の用語と化しつつある感がするし、いわんや植民地生活などというものは、今や化石化しつつある。日本の帝国主義による異民族支配·経済的搾取主義という「マクロの悪」の中で、異民族と共存して、なんとか安定的生活を営もうとする一般日本人庶民の「ミクロの善」が、けっしてなかったわけではない。「化石」に特別の意味づけをするつもりはないが、日本民族の生活史のやや-クな一面というような意味も含めて叙述してみたい。

ただし、昭和六年満洲事変以降の大連について述べることには、私としては抵抗を感ぜざるを得ない。当時ほうはいと起こってきた軍国主義の風潮のなかで、土地柄、まさに帝国主義下の植民地としての様相を年一年色濃くしていった。そのことが筆をすすめることに強いためらいを感じさせる。ごのいわゆる十五年戦争の頃なら、まだ多くの人が記憶にとどめていると思われるので、洲事変頃までの記述にとどめたい。その意味で表題を「大正から昭和の大連」とした。

洲事変前には、中国人と融和していこうという風潮や配慮が感ぜられた。学校や家庭でもそのように教えられもしたが、事変後、特に満洲国成立後は、建前は五族協和でありながら現実は支配者·統治者意識が強くなっていった。事変前、関東州·大連の私たち日本人は、この地は中国からの期限付の租借地であるという意識を常にどこかにもっており、それが中国人に対する何がしかの自制心として働いていたと思う。事変後満洲国の成立となり、満洲国の内実には、年々日本のかいらい国家としての性格がクロIズアップされるに伴って、租借地などという意識は稀薄となって、帝国主義下の植民地の様相を濃密にしていったのではあるまいか。

今や、中国の近代化推進、日·中交流の進展の中で、中国の人民にとって、大連が新たな性格をもった期待の都市として発展しつつあることは、私たちかつての住民にとってもたいヘん喜ばしいことである。最近の新聞報道では、大連を経済特区、工業特区として、さらには、市の一部を観光特区として、外国、特に日本の協力、資本進出を期待歓迎するということである。あの大連が日·中両国の交流拠点としてクロIズアップされるのである。何とも嬉しい報道である。ますます多くの人たちが大連に関心をもってもらいたいものである。

誤解のないようにお願いしたいのは、いかに大連生まれ大連育ちの私といえども、過去の日本の大陸進出、中国への侵略政策をけっして是認するものではない。筆をとらしめるものは、満洲の大地、大連の土地·海辺に対する忘れがたい愛着心である。当時の事情をできるだけ正確に紹介しておきたいという気持ちである。私たちにとっての悩みは、生まれ故郷を愛しむ気持ちを、単なる植民地生活の受益者心理として見られはしまいかというおそれである

最後になってしまったが、この文章を書きつづけていく意欲をかき立ててくれたのは、大連出身の詩人·作家清岡卓行氏の大連に関する一連の文章である。なかでも『大連小景集』·「大連の海辺で」などは私の古い記憶を新鮮なものにしていただいた。さらに、北大路健氏編の「さらば大連·旅順」なる写真集と、一枚の古い不完全な大連市街図が、強力な記憶呼び戻し剤になったし、叙述のための参考資料になった。感謝の意を謹しんで申し述べたい。



城记1899
还在学习大连旧城旧事老地图老照片中,不定期分享相关资料。
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