土屋一家的回忆
日俄战争,虽说是幸存的勇士,但对现在的年轻人来说是不会一下子就能知道的,当时我上小学还是不上小学的时候,这个故事的主人公土屋统一郎先生,在孩子的眼里确实是个堂堂正正的大汉,从中国流的角度来说,是个冲云的大汉。现在想想,也许是40岁的年纪。
在战争中被敌人的“子蛋”打穿了下颚,剩下的一部分皮代替了下颚,所以说话的时候如果听不懂的话,就不知道在说什么。
色黑、高个子的风度,乍看平静的眼神里也有射人的锐利目光,积蓄的长髯,以及一天到晚穿着黑色支那服的别具一格的风彩,怎么看都足以让人想起满洲浪人。
我打算以后再详细写,但是这个满洲浪人和我家结了亲戚关系,这个世界也很不可思议。
在天长节、正月等市的庆祝会上,在那件支那服上挂着从军徽章和功几级勋章,一边说着关东煮什么的一边哈哈大笑的样子给我留下了深刻的印象。土屋老人在我的记忆中没有错误的话是佐贺出身的。
听说他被日俄战争召集,战后就这样留在了满洲。那片辽阔的满洲之土,想必是他相当中意的吧。
在大连西南约四公里处,有一个以奇岩风景而闻名的名为“老虎滩”的渔村,四十年前是一片盐田。后来,把盐田拆掉,变成了秀月台、清明台等文化住宅林立的别墅地区,在盐田时代,土屋老人在现在的静浦小学的西侧附近,耕种了约四公顷的土地,养鸡和农业。
从入门经过长长的畔道进入正门,那里有漂亮的藤架,每年开花的季节都会举办盛大的藤见会,我也记得去过几次。这是我第一次知道,紫藤籽是当地的福神腌制中不可缺少的奇怪形状的食物。
后来听说,当时,根据市政府的方针,有必要对战后荒芜的土地和房屋进行紧急整备,郊外的土地几乎都以无偿的金额支付了。
土屋老人与当时的大连市政府土木科长,是在军队关系中认识的人,请他们把老虎滩的上述地方拨了下来。于是老人经营着农业,自己把这个地方称为“锡安台农场”,非常高兴。
变化的不仅是样子,还有它的生活方式。
得到了一个叫“ふで”的女人,虽然长年生活,但两人之间没有孩子。
土屋老人不像这样的生活和脾气,在热心的“克里斯查索”接受三好牧师的洗礼,属于西广场的教会。
星期天礼拜要越过不方便的山路,几次被狼袭击,用这个“手杖”来击退了。
不久土屋老人近一年都不见了。我在想是怎么回事,但不知什么时候忘了。
有一天,蒙古的骆驼来到了电游乐园,学校里有三年级以上的学生要去参观。
其他学校的学生也来了,在高高的木栅里,有两只两瘤的骆驼——比大人高一倍——蓦然一看,走进那栅栏里抚摸和抚摸骆驼的人竟然是土屋老人。
这让我十分吃惊。
据日后所说,他带着什么要务,大约一年进入内蒙古,带着两只骆鴕作为伴手礼,步行回大连。
和骆驼一起睡两个月,走路,吃饭,辛苦得好像也不是什么骆驼。据说是把角那只骆驼捐赠给市里,从市里委托给当时满铁经营的电动游乐园的。
前一年,我去滨町的海岸看了误入近海的长须鲸,作为不常见的动物的回忆,这两件事不能忘记。
他是一个不怕做一般人避之不及的事情的老人,比如照顾一个被路过的马车撞成重伤的中国人,并把他送到城里的医院;他是一个总是因为自己的离奇想法而成为新闻人物的人。
这位老人也不受惠的一件事是没有自己的继承人。
关于这件事,我父亲好像提出了商量。隔着隔壁的隔扇问
听了断断续续的话,总觉得能听到想要我或者弟弟的口气,总觉得这个老人很可怕。虽然过了一段时间,但也没有带我去土屋老人那里,所以我就放心了。
二、三力月后,大连救世军妇女家庭主任山田弥十郎先生的传教士告诉我,一对生活困难的朝鲜年轻夫妇,因为不能抚养两个孩子,经常缺食的生活而被逼到死亡的一步,我的父亲直接和那对朝鲜人夫妇商量之后,作为家人接受了,上了户口后,重新领养了土屋家。
第一次两个孩子来我家的时候,两个孩子突然增加,感觉有点奇怪,但马上就不是朋友而是兄弟了。
然后,在土屋老人和父亲的商量下,将大儿子命名为统太郎,将小儿子命名为统,选择吉日加入土屋家。因为这样的理由,户籍上规定两个朝鲜人的孩子是我的弟弟。
之后朝鲜的夫妇回国在工厂工作,不知什么时候就失去了消息。
两个孩子当时三岁和五岁。
被土屋家引进的统太郎和统受到了新父母的爱,茁壮成长,不久就开始上当地的小学了。
我特别喜欢和统太郎玩。进入田地拔出“西红柿”,追着鸡,在田地里流淌的小河里摘下“青鱼”,过得很开心。两人的成绩都很好,班长好像也工作过几次。
不久哥哥统太郎初中也毕业了,在日支事变之前应召了,不过,4年后回来的时候任少尉。怎么看年轻的少尉大人都不像以前的“西红柿”。
战争变得激烈,日后两天应召的时候,也许是心理作用吧,在他的背上感觉到了什么寂寞的东西。之后,虽然在一年左右暂时退伍,但由于结核在小平岛的医院结束了短暂的一生。
弟弟统也从很久以前就得了胸病,一直持续着一进一退的病情,之后两年后,追上了这个世界上关系最好的哥哥统太郎。作为朝鲜人的孩子出生,在土屋家长大的这两个弟弟们,现在在天国友好地携手吧。
就连非常刚毅的土屋老人也完全灰心了,在日后成立的大连郊外土地株式会社,只剩下自己的住处,土地全部卖掉了。虽然有钱,但是很沮丧,还没赶上年波,夫妇都相继离开了这个世界。
写有大连奇怪人物杂志的土屋一家,大正初期他擅长的“西奥索台农场”现在也没有办法了,变成了文化住宅,有藤栅栏的地方等,汽车扬起沙尘行驶着。
我想把满洲浪人土屋统一郎和两个弟弟们的石碑留在纸上,安慰这些人的灵魂。
日语原文:
土屋一家の想い出
日露戦争、生き残りの勇士、といっても、今頃の若い人には"ピン”とこないだろうが、当時私が小学校にあがるか、あがらないかの頃、この話の主人公、土屋統一郎氏は、子どもの目から見ると実に堂々カクシャクとして、中国流にいえば、雲を突くような大男であった。いまから考えて見ると、あるいは四十位の年かっこうであったかも知れない。
戦争で敵の"タマ”に下顎を打抜かれ、わずかに残った皮の一部が下顎の代用をしているので、話をする時などよほど聞きなれないと、何をいっているのか解らない。
色黒、長身の風格と、一見おだやかな目の中にも人を射るような鋭い眼光、蓄わえられた長髯、それに四六時中黒い支那服を着ていた一風変った風彩は、どう見ても満洲浪人を思わすのに充分だった。
あとで詳しく書くつもりであるが、この満洲浪人と、私の家が親戚関係を結ぶことになったから世の中も不思議なものだ。
天長節や、正月など市の祝賀会には、例の支那服に、従軍記章と功何級かの勲章をぶらさげて、おでんかなにかをほうばりながら呵々大笑している姿がひどく印象的だった。土屋老人は私の記憶にあやまりがなければ佐賀の出身である。
日露戦争に召集され、戦後そのまま満洲に居残ったと聞いている。あの広漠たる満洲の土が、よほど彼の気に入ったのだろう。
大連の西南約四キロのところに、奇岩景勝をもって知られる老虎灘〈ろうこたん〉という漁村があり、四十年前は一面の塩田であった。のちに、その塩田をとりこわして、秀月台︿しゅうげつだい﹀とか清明台人せいめいだい〉とかいう、文化住宅のならぶ別荘地域になったが、その塩田時代に土屋老人は、今の静浦小学校のある西側附近に、約四へクタ-ルの土地を耕やし、養鶏と農業をやっていた。
入ロの門から長い畔道を通って正門に入ると、そこには見事な藤棚が続き、毎年開花の季節には盛大な藤見の会が開かれ、私も幾度か行ったことを覚えている。藤の実が当地の福神漬になくてはならない変な形の食物だとは、この時はじめて知った。
支那人の農夫を十人位も使って、当時としては相当な暮しをしていたが、戦争で居残った人がどうしてこんなに広い土地や、家財を持っているのかと不思議に思ったことがある。あとで聞いた話によると、当時、市の方針では戦後の荒れた土地や家屋を至急整備する必要があり、郊外の土地を殆んど無償に近い額で払い下げたらしい。
土屋老人は時の大連市役所土木課長とは、軍関係での知り合いで、老虎灘の前記の場所を払い下げてもらったということだった。そこで老人は農業を経営し、自からはこの場所を「シオン台農場∫と号し至極御満悦だったらしい。
変っているのはふうさいばかりでなく、その生活様式である。土間に木の机と椅子を置いて、支那人の常食である『マント」や「トーモロコシ┘を粉にして作ったパソなどを、生葱をかじりながら食べている。ふだんは素足で畑を走り廻ったり、豚の世話をしていた。
同鄉のふでという婦人をもらって、永年暮していたが二人の間には子供が恵まれなかった。
土屋老人はこのような生活や気性に似ず、熱心な「クリスチャソ┘で三好牧師より洗礼を受け、西広場の教会に属していた。
日曜日の礼拝には不便な山路を越え、幾度か狼におそわれ、この「ステッキ」でおっばらいましたよリ と、こともなげに話をする老人は、どこまでしょうの強い野人なんだろう。
間もなく土屋老人は一年近くも姿が見えなくなった。どうしたのだろう位に思っていたが、いつとはなく忘れてしまった。
ある日、電気遊園に蒙古の駱駝が来たので、学校から三年生以上が見学に行くことになった。
ほかの学校の生徒も来ていたが、高い木の栅の中に、ふた瘤の駱駝が二頭いた--大人の倍位もある--ふと見るとその柵の中に入って駱駝をなでたり、さすったりしている人が何と土屋老人である。
これには全く驚いてしまった。
後日の話によると、何かの要務を帯びて、約一年内蒙古に入り、土産に駱鴕二頭を連れ、歩いて大連まで帰ったそうだ。
二カ月位駱駝と一しょにねたり、歩いたり、食わしたり、大変な苦労であまりラクダでもなかったらしい。とに角その駱駝を市に寄附し、市から当時満鉄が経営していた電気遊園に委託したものだそうだ。
その前年、近海に迷い込んでとれた長須鯨を浜町の海岸に見に行ったが、変った動物の想い出として、この二つのことは忘れられない。
通りがかりの荷馬車があばれて下敷きになり、大けがをしている支那人を自分まで血まみれになって世話し、街の病院まで連れて行ったことなど、普通尻込みするようなことでも平気でしたり、奇想天外な考え方を実行する老人は、なにかにつけて、話題にのぼる人だった。
この老人にも恵まれない一つのことは、自分のあと継ぎがいないことだった。
このことに就いて、私の父にしば相談を持ちかけていたようだった。となりの襖越しに聞
いたとぎれノ\の話によると、どうも私か弟が欲しいらしいような口ぶりがうかがえて、なんだかこの老人がこわくなった。それから日にちが経ったが、別に私を土屋老人のところヘ連れて行くようなようすもなかったのでひと安心した。
二、三力月後、大連救世軍婦人ホーム主任の、山田弥十郎さんという宣教師の方から話があり生活に困窮しているある朝鮮人の若い夫婦が、二人の子どもを育てることが出来ず、欠食しがちの生活で死の一歩手前まで追いつめられている事情を知り、私の父が直接その朝鮮人の夫婦と話し合った末、家族としてもらい受け、戸籍に入れた後、改めて土屋家の養子にすることになった。
始めて二人の子どもがうちへ来た時、子どもが二人も急にふえて、ちょっと変な気がしたが、すぐ友達でなく兄弟になった。
そして土屋老人と父との相談で、上の子を統太郎へとうたろう〉、下の子を統〈もといソ、と名づけ、吉日を選んで土屋家に入籍した。このょうな理由で戸籍面では二人の朝鲜人の子が私の弟ということになっている。
その後朝鮮の夫婦は国ヘ帰って工場につとめていたが、いつの間にか消息がとだえてしまった。
二人の子どもは当時三歲と五歳だった。
土屋家に引取られた統太郎と統は新しい両親の愛を豊かに受け、すくすくと成長し、やがて土地の小学校に通い始めた。
私は特に統太郎とよく遊んだ。畑に入って「トマト」を引抜いたり、鶏を追っかけたり、畑の中を流れている小川で「メダカ」を取ったりして楽しく過した。ニ人とも学校の成積もよく、級長もいく度かつとめたようだった。
やがて兄の統太郎は中学も卒業し、日支事変の直前に応召したが、四年位して帰って来た時には少尉に任官していた。どう見ても若い少尉殿はかつての「トマト」抜きには見えなかった。
戰争がはげしくなり、後日ふたゝび応召した時、気のせいか彼の背になにか淋しいものを感じた。その後、一年位で一旦除隊したが、結核のため小平島の病院で短い一生を終えた。
弟の統も大分前から胸の病を得、一進一退の病状を続けていたが、それから二年後、この世の中で最も仲良しだった兄、統太郎のあとを追った。朝鮮人の子として生れ、土屋家で成長したこの二人の弟たちは、いまは天国で仲良く手を取り合っていることだろう。
さしも剛毅な土屋老人もすっかり気落ちして、後日設立された大連郊外土地株式会社に、自分の住いだけ残して土地全部売払ってしまった。金はあったが、ひどい気落ちと、よる年波にはかてず、夫妻とも次々とこの世を去っていった。
大連の変った人物誌を綴った土屋一家も、大正の初期には彼の得意だった「シオソ台農場」も今はあとかたもなく、文化住宅になって、藤柵のあった所などは、自動車が砂ぼこりをあげて走っていた。
かっての満洲浪人、土屋統一郎と二人の弟たちの碑を紙上に残し、それらの人の霊を、なぐさめたい。