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文摘
旧时期日本教材里的大连,北京等等
文摘
2025-01-02 10:34
日本
以下的内容为日语原文,是旧时期日本教材和书籍里的大连,北京等等,经过了后世的日本学者的整理,现全文转发,仅供参考。
朝の大連日本橋(原文)橋の時計は八時に近い。其の下に老いたロシヤ人が、パン箱を胸に下げて立つてゐる。敷石を見つめたまゝ動かうともしない。其の前を出勤を急ぐ紳士が通る、勢よくステツキを振り振り靴音を立てて。すれ違ひに自動車がすべつて来る。小僧さんの自転車が後に続く。電車ががたがたひゞいて来る。橋の下を、鐘を鳴らして貨物列車が行く、石炭を山程積んで、白い煙を橋の上に吹散らして。埠頭の方は、煙やもやで灰色にかすんでゐる。ロシヤ町波止場の海が赤煉瓦建物のすきから見えて、ジヤンクが静かに浮かんでゐる。どやどやと苦力の群が橋を渡る。小ぶとんを丸めて背につけた男たち、乳のみ子をふところにかゝへた女たち、ちよこちよこと親たちについて行く子供たち、ごみごみしたよごれさけた着物・づきん・股引、日にやけて黒く光る頬の色。苦力の長い列を横切つて行く小学生、水色の子供服に真白なエプロン、背嚢をつけて、短いズボン。旅行鞄と人を乗せた人力車、荷物をたくさん積んだ馬車。ホテルの客引がお客を案内して行く。朝の客車が今着いたらしい。
「あじあ」に乗つて(原文)
十時大連発の「あじあ」に僕は乗つた。見送りにいらした母が、大勢の人にまじつて見える。僕は展望車から母とお別れをした。「おかあさん、行つたママ参ります。」僕が手をあげると母もあげられた。車窓を開くことが出来ないので、此の言葉も通じないらしい。母も何かいはれるがこちらにはわからない。「あじあ」は流れるやうに動き出した。僕は春休みをハルビンの叔父の所へ遊びに行くのである。一度乗つて見ようと思つてゐた此の汽車に乗れて実に嬉しい。 植木鉢には百合の花が咲いて、ゆらゆらゆれながら「ようこそ。」と迎へてゐるやうだ。日の丸の徽章を胸につけた何処かの団体の人たちも乗つてゐる。車掌に尋ねると、「あの方々は、英国皇帝戴冠式を拝観に行かれるのです。」と教へてくれた。それから乗客たちに「あじあ」について時速は八二・五粁、全長は一七四米、車体の材料は殆ど国産品であること、流線型にしたわけなどを説明した。「今金州にさしかゝりました。右手のは大和尚山で関東州第一の高山、左手の丘の碑は乃木勝典中尉の戦死された記念碑であります。金州城が手にとるやうに見えませう。そゞろに乃木将軍の詩もしのばれるのであります。」 畑はよく耕されて、農家がぽつぽつ見える楊の枝に鵲が巣をいくつもかけてゐる。僕はそれを数へてみた。「何を数へてゐるの。」肩に手をかけた人がゐる。見るとロシヤ人の女の子だ。「あの鵲の巣を数へているのさ。」といつたけれども、鵲といふ日本語がわからないらしい。鳥の巣といつたらすぐにわかつた。此の子は新京の家に母と帰るところで、マルタといふ名だといふ。「おかあさん、あそこ。」指さされた所に、緑色の上着を着たロシヤ婦人がぶ厚な本を読んでゐた。得利寺を通りかけた時、「お墓が、お墓が。」とマルタは叫んだ。日露戦争で戦死した露国兵の墓地を見つけたのである。熊岳城が近づいた。「あの温泉に入つたことがあるの。」ときくと、去年の夏遊びに来て、砂を掘つて湧き出るお湯につかつたといふ。望小山が見え出したから、その山の伝説を話してやらうといふと、お昼御飯をたべながら母と二人で聞きたいといふ。そこで三人は食堂車に入つた。ロシヤ少女が給仕をして働いてゐた。昔母子二人暮しの家があつた。息子は勉強のため山東へ渡つて行つた。何年かたつてもう帰つてくる頃になつたので、老母は毎日々々望小山に登つて待ちつゞけた。息子は一生けんめい苦学したかいがあつて立派な身分になり、いよいよ故郷に帰ることになつた。ところが途中海が荒れて息子は船とともに沈んでしまつた。老母はそんなことはつゆ知らず、風の日も、雪の日も待つてゐたが、つゆに山の上でなくなつたといふ話である。 大石橋で初めて停車した。ここから営口へ行く線がある。マルタとホームに出た。風が冷たい。「あの山はなんといふ名でせうか。」「あれは迷鎮山、頂上に廟が見えるだらう。あの廟の祭が娘々祭といつて満洲では一ばん賑かで、その時はあの山いつぱい着かざ-37神戸大学「研究論叢」第29号 2023年6月30日つた人で埋つてしまふ。」 この廟についてのふしぎな伝説を話してきかせた。車掌がボーイに、「もう二度、車内の温度をあげてくれたまへ 。」といひつけてゐた。北の方では、三四日前に雪が降つたので、遠い山の峯が白くなつてゐる。なんだか空が曇つて来た。国防上大事な仕事をしてゐる鞍山の昭和製鋼所からは茶色の煙がたちのぼり焔も見えていかにも勇ましい工場だ。まもなく遼陽の白塔が眺められられた。おちついた美しい形をして聳えてゐた。太子河の鉄橋を渡る。「あじあ」は防音装置がしてあるので、外の響は車内にはとどかない。太子河はめづらしく水かさが多いが、いつもの濁流だ。行く手の撫順線を軽油動車が走つて行く。「『あじあ』のスタンプおしませんか。」ボーイがさういつて来たので、僕はノートに二つおしてもらつた。 奉天についた。此処は安東・撫順・北平の分岐点なので客車がいくつも停つてゐて、苦力が忙しさうに荷物を運んでゐる。日かげの所々に雪が消え残つてゐる。奉天はまことに平な町で、ただ北陵の松林が小高くなつて見えるだけである。満洲事変の北大宮の跡がそのまゝに残つてゐるのも車窓からよく見える。奉天で兵隊さんが乗つた。大きな軍刀を持つてゐる。雲が切れて陽かげがさして来た。雲はしきりに流れて早春の畑を野を雲の影がはつて行く。「あじあ」は雲の影を追ひこしたり追ひこされたりして、満洲の背骨をまつしぐらに突進する。どこかの大学生がカメラを持つて来て、車内から外をねらつてゐる。 開原の駅を通過した時、汽車がすれちがつた。ハルビンからの「あじあ」だ。淡緑に白線の車体が向かふのスロープをカーブして行く。なんと美しい線と速度であらう。空はすつかり晴れ上つた。友邦中華民国の晴天白日旗が思はれた。 四平街に着く。此処からチチハルへ線がつづく。大きな構内には、冬になると大豆が山積するのだ。 兵隊さんが僕のそばに来て「あそこの丘がわかるかね。あれは公主嶺てママ、大事な分水嶺なんだよ。昔ロシヤのコサツク兵はあの丘で教練してたのだが、今は農事試験場の羊や牛がランニングしてゐる 。」と元気よく話されて、日にやけた顔で笑はれた。向かふの農家に満洲国旗がひらめいてゐるのが見える。そばで働いてゐた満人たちは、鍬の手を休めてぼんやりこちらを眺めてゐた。「汽車の影が長くなつたね。」とマルタがいふ。汽車の影だけではない。電柱の影も樹の影も煙の影もずつとのびた。「あじあ」は一気に国都新京に迫つた。夕日に映えて遠く国務院や関東軍司令部の建物が光つて見え、新しい住宅や街路樹があざやかだ。兵隊さんは軍刀をかちやかちやさせて下車された。僕がお辞儀をすると勢よく挙手される。マルタも下りて行つた。渡英団体の人たちも下車したので、車内はさびしくなつた。マルタは僕を見送るといふ。母がしきりにマルタに話しかけては僕を見上げるのだが、何をいつてゐるのかわからない。「さよなら」「さよなら」マルタはとび上りながら手をふつた。新京からビユーローの知つてゐるおぢさんが乗りあはせた。「一人でやつて来たの。そりやえらい。今北へ旅するのは君だけではない。雁もたくさんシベリヤをさして飛んでゐるよ。」こんな話から、満洲には水田が多くなつたとか、これは朝鮮人が耕すのであるとか、鉄道の附近は棉をつくるとか、棉の花も美しいが、その実を摘む時、満人の紅い服がなほきれいだ。鉄道愛護村といつて沿線に住んでゐる人は鉄道を大事に守りお互に助けあひなかよく暮らしてゐるとか、いろいろおもしろいことを聞かせてくれた。日が沈むところだ。大きくて紅くて上海蜜柑のやうだ。夕日と僕との間にはさへぎるもの一つない。明日またお日さまごきげんよう。鳥の群が地上から飛上つた。うす紫の夕空にばら色の細い雲がたなびいた。それを見てゐたら母を思ひ出した。そしてもうしばらく別れてゐるやうな気がした。夕食をすませてから母に手紙を書かうと思つて、食堂車に行つた。テーブルには灯が明かるくともつてゐて、食事を注文すると、ロシア少女の給仕人が僕の顔を見おぼえて、にこにこしながら運んで来てくれた。何処か知らない駅に停車した。大きな樹の上に星が光つてゐた。ビユーローのおぢさんは向かふのテーブルで二三人の友達と楽しさうに笑つてゐた。「あじあ」のマーク入の便箋に手紙を書いて今朝おしてもらつたスタンプを入れてボーイにたのんでしまつたら眠くなつて来た。百合の花はやつぱり首をこくりこくりとゆり動かしてゐる。そこへおぢさんが食堂からもどつて来られた。「さ、もうぢきだよ。君『あじあ』といふ言葉のわけを知つてゐるかい。これはね、日の出る所といふ意味さ。いゝ名だね。ぢきハルビンだ。昼ならば此処らから志士の碑が見えるのだがね。駅に下りたら伊藤博文公の斃れた場所を見て行きたまへ。」 いよいよ「あじあ」はハルビンの町へ入つて来た。百合の花は「さよなら、おやすみなさい。」をしてゐる。時間表通り二十二時半にぴたりと停車した。僕はいそいそと下りて行くと、突然叔父が「やあ、よくやつてきたね。」と声をかけて僕の手を握つた。冬のやうに寒い夜だ。白亜の家の上に三日月がかかつてゐる。
北京見物(原文)
汽車が北京に入ると見上げるばかり大きな城壁にそつて走る。日暮なのでうす暗い城壁の下に杏の花が白つぽく咲いてゐた。停車場はさすがに支那人が多くざわめきも異国風である。駅前には正陽門といふ立派な城門があつて賑やかだ。人力車は歩く人よりも多い。 景山に登つて北京を眺めた。この山は万民景仰の意味で名づけられたといふが北京にはかうした慶ばしい名称がいたる所に見うけられる。宮殿や城門の名はいはずもがなで道路の名風呂屋の名までさうである。景山の頂上から見下した北京は廣廣とした平らな街で、どつしりと根を下してゐるやうだ。 一番目につくのは紫禁城である。こゝは代々の皇居で壮麗な宮殿が幾棟も立並びその黄金色の屋根瓦は碧空に映えて輝しい。四百余州に君臨した皇帝の威光も偲ばれる。今は故宮博物館となつて、すばらしい宝物が藏められ一通り観覧するにも四五日はかゝる。 次に目をひいたのは北海中海南海の池である。黄ばんだ柳に縁どられたこの池は手鏡を地上にならべてはめこんだやうにすがすがしい。夏になると池は蓮の花で埋められるといふから刺繍を眺めるやうであらう。 鼓楼や孔子廟も見える。遠く朝陽門のかなたに通州があり、廣安門の向ふに盧溝橋のあることもわかつた。 北京は城壁でぐるつと囲まれてゐて、東西南北にいくつかの城門がある。いはゞ城門は北京の窓だ。一千年も前にこれほど大きな都市を頭に描きしかも整つた区分をした人は偉いなと思つた。北京の美しさは小さな部分的のものではなく、全体として大きな所にあるやうに思つた。例へば内城と外城との面積の割合とか、城壁に釣合つた城門の高さだとか、城門にふさはしい幅のある街路とかに比例の美がうかがはれる。 天を祀ることは支那歴代皇帝の行事であつて、北京には日壇月壇天壇などの祭壇がいくつかある。中でも天壇は名高い。天壇は外城にあつて、まはりには老松が聳え、真昼に松風を聞いてゐると、うら寂しいほど閑静であつた。大理石で畳まれた円形の祭壇、旗や幟をたてた石の台大きな 火たき、犠牲の竈など見て、その昔夜明け前に諸官が参列して、奏楽のうちに天子が祈祷される厳かな様子も思ひ浮べられた。 北京から十粁ばかり離れて万寿山がある。清朝の離宮で豪華な楼閣が麓から峰にかけて構へられ昆明湖といふ清い湖に影をうつして、箱庭のやうにとゝのつてゐる。長廊を渡つたり、石舫に乗つたり、仏香閣に登つたりした。かうして建物を見てゐると朱と緑との感じが目だつ。一本の柱にも天井にも扉にもそれが見られる。建築からだけではなくだだつ廣い大きな赤い壁と背景の松、芝生を歩いて来る紅衣の子どもたちもやはりこんな色調である。 昆明湖の水は玉泉山から流れて来る。玉泉山には「天下第一泉」と名づけられた湧水があつて、一口飲むとまことに爽かな味がした。 おもしろいと思つた所は東交民巷と露天市場と胡同である。 東交民巷は各国の大使館区域で周囲は銃眼のついた囲壁をめぐらし外郭を空地にしてある一種の要塞地帯だ。此処は義和団事変の議定書によつて定められたので、支那人の居住を許さない。道路も庭園も建物も洋風なので通つても清々する。首都の真中に自国民の住めない特殊区域のあることは支那歴史の一部が顔を出してゐるやうでおもしろい。 露天市場には日用品のありとあらゆるものが雑多に並べられてある。地べたにランプがあり、眼鏡があり、天ぷらの匂ひがたゞよひ、古着屋の軒に小鳥が囀づり、ほこり風は古雑誌の頁をめくつてゐた。 胡同といふのは路次のことで北京古風の名残をとゞめてゐる。一輪車の水売りが通り、磨ぎ屋、床屋さんも通る。みんなのんびりとした鳴物を鳴らしながら通る。門口から支那少年が凧を持つて出て来るとそこにゐた家鴨がよちよちと逃げていく。どこからか花嫁行列のラツパも響いてきたりした。 三月の終りなので北京名物の鳩笛を聞くことができた。飼鳩に笛をつけて飛ばしてやるとかはいらしい音が降つてくる。いかにも鳩が仲よく歌つてゐるやうだ。朝日に羽を光らせながら群れ飛ぶのもなかなかきれいだ。北京の人達はこの鳩笛を耳にして春の近づいたことを喜ぶ。 何百年といふ長い間眠つてゐたこの古都は漸く眼を覚まして新しい空気を吸ひこんで力を出さうとしてゐる。皇軍ニウスをかゝげるアドバルーンや市内あちこちに翻る日章旗などは、北京の新点景である。
城记1899
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