关于张本政之二三事

文摘   文化   2024-09-29 05:43   日本  

    (复活了两年前的九月份里写的文字,也是某种程度的结合当时的时间点写成的,日本最新新闻是前天的日本自民党总裁选,也相当于十月份开始的日本首相选,最终结果是以前做过日本防卫大臣的石破 茂一波三折后当选,对手的高市早苗是旧安倍的忠实跟随者,日本右翼的代表性人物。第一轮投票高市凭借超高的党员票以第一位进入了第二轮决赛投票。在靖国神社参拜一事上立场截然不同的的两个人也是日本右翼和偏左,抗中或者亲华的对立人物,结果以现任首相岸田派的自民党一众人物做了现实选择,投票给了拒绝参拜靖国神社,相对亲华派的石破茂。国家之间的关系,政治,外交往往比较复杂不是简单的只有黑于白的单选题目,而不管是当前的石破茂会怎么面临和中国交往,还是本文中所说的80年前在九一八事变前的张本政谈论中日关系,复杂事件,都是基于现实,基于利益或者国家利益或者商业利益吧。)


      最近实在是忙,但是还是在8月15日抗战胜利纪念日这天里看了一段新闻纪录片,是记录了1945年9月2日在美国军舰密苏里号上的进行的日本投降签字仪式,整个仪式只要20分钟,先是日本两位代表在投降书上签字,在麦克阿瑟和尼米兹分别代表盟军和美国在投降书上签字后,第三位就是当时的中华民国军令部长徐永昌在商震将军陪同下也在投降书上签字了,这距离1931年9月18日的九一八事件已经过去了14年,中国人民的抗战已经是14年了啊。

      在1931年9月18日之前在当时的中国东北还有中国其他地区,中日之间发生了一系列事件和冲突,直接或者间接导致了日本军决定对张学良部开战,9月18日炮轰沈阳北大营,战争升级。

      都有哪些事情呢?

     主要是1931年4月开始发生在吉林长春的万宝山事件,一直到8月尚未最终解决,这还造成了在朝鲜的袭击报复在朝华侨事件,还有随之而来的在上海,青岛发生的反日运动,当年6月发生在内蒙古的中国屯垦军关玉衡团长处决日本间谍中村震太郎事件,这些事件在几个月的时间里经过各种报道,期间还有日本人驱使记者做假报道来挑起日本人的舆论等等,在中国,日本和朝鲜乃至世界上都引起了轰动。

   开办于大连相当于满铁机关报的《满洲日报》在当年8月25日到30日做了一个连续采访,标题叫做‘日本中国亲善策略  在大连的中国名人的观点’ ,就这之前的一系列事件采访了这几位当时在大连的所谓名人。

   



分别是孙传芳 李经芳 陈锦文,傅宗耀,张本政,庞睦这六位。

让我们看看当时的大连本地经济界大人物,一贯交好日本的张本政是怎么回答的。


(日语原文附在文后)


      张本政首先是就当年在长江流域发生了水灾之后,日本社会也是多方报道,有援助的行为表达了感谢。

然后他就这一系列的事件表达的观点是要有大局观,要从东北的现状,中日的现状还有国际世界的现时状况出发,要眼界更扩大,走出一个地域一个事件要从整体大局来看这些事情。

    以这个为前提来看万宝山事件,那只不过是块猫脑袋大小的土地,就是一个地方性的问题。放在东北旧满洲的广大土地上看实在是没法比较的事情,所以希望双方都采取慎重的态度来解决。还有朝鲜人问题,他的意见是东北这么大,有70万朝鲜族人,应该可以容得下他们生存发展,养活自己。

     朝鲜事件(在朝鲜的反华驱侨事件)和青岛事件(反日事件)都是极其不愉快的事件,对于中国人来说朝鲜事件很容易在感情上引起共鸣但这不是有计划的,而是一时发起的。所以这2个事件都是可以解决的。

      至于还有‘反日会’等等,这都是个别极端事情,早晚要沉静下来。要看到国民政府到现在也沉默没有表态。

     关于中村事件我先表示遗憾,对于此事我仅仅从新闻中得到消息,具体事情真相我还没有了解所以没有什么具体可以说的。作为我自己考虑要是一个中国人装扮成日本人到日本内地去旅行,你们来看一个日本人装扮成中国人到尚未安定无秩序的边境地方去,而且你知道满蒙的状况,所以这个事情要静观。而且你也更理解我国的国情了吧。所以我想,要静待其变才是(发展)中日融合的关键。


      这段报道还有其他几位名人包括李鸿章的长子时年77岁的李经芳等等,都是很有时代感,也许都是当时的政经两界之名人,大概上都是这种类似的大局观。多少也是和在整个这一系列事件中一直保持沉默的国民政府相一致,在九一八事件之前,日本政府和日本军都是采取了很多进逼中国,挑起两国纠纷的政治行为,当时的国民政府认为在当时情况下要避免和日本的正面冲突而采取了退让的态度,这最终也未能避免战争,再就是大家所熟知的在这系列报道的20天之后在沈阳爆发了由日本关东军挑起的侵华事件--九一八事件。


让我们再看看张本政其本人是如何描述自己的发家史吧。


具体日语也是附在文后,具体请参考原文:

  这时的张本政67岁,在他政记公司里的房间里摆放着紫檀条桌和祭坛,墙上的匾额是黄缎面上写着的【督财府】,记者想到了这是在祭财神呢。

  张本政说,他16岁丧父,作为长子就要抚养妈妈和三个弟妹,所以弃学到杂货铺做小伙计,所以一直不能忘记那个时候的心情。再就是中日甲午战争的时候,他当时已经到旅顺自己开始做杂货铺生意,适逢战乱变成一团糟了,没有办法了就是到当时的兵站找到了高桥,领取日薪帮忙募集劳动力,其实我自己也是半个苦力,,,那个时候我是29岁。

  关于他的财富积累就是从甲午战争后他到了烟台在贸易商高桥号做了一年,那之后是煤炭运输业梶原号的一年,三十五岁时被聘请为当地的德和洋行的掌柜,到三十八岁时在烟台创办了政记公司。

  文章最后提到了政记公司的清理日本船员一事,希望能从所谓的中日亲善角度妥善解决。


  因为这些旧时的记录都是有原文,也附在了文后,具体到当时还有哪些时代背景,关于张本政的这些话这些事要怎么理解,我想这都不过是在当时那个时间点的一系列发言和观点,需要放到整个的历史大背景中去看待。后来中日战争全面爆发,国民政府要求中国船只都要回到南方,张本政和政记公司却是逆民族之抗战而为,选择了把船只都开到了日本控制区域。

  而就在同时的1938年中国还有一个民生公司和卢作孚,在四十天内抢运了一年的运输量,为抗战做出了特殊贡献。

再往后,张本政给日本军捐赠飞机也是事实。



1. 政記公司総理張本政氏は旅順黄泥川の産、氏に明治三十八年政記公司の本陣を芝罘より大連に移点せしめたが爾来殆ど三十年大連を中心舞台として今日の財的勢力を作り上げた人だ、だから氏は土着州内商人の代表ともいえるのである

政記公司の応接室で記者はこの老実業家と対座する、あの巨躯にも似ず氏の態度は実に瓢逸で特長のある天神髯をヒネリ人懐つこい微笑さえ浮べて話す「ハハアこんなところも人に好かれるのかも知れないな」と記者は思い乍ら現下の日支問題に就いて切り出そうとすると氏は先ず口を開いた

 「ホントに有難うございます、私は最近のお国の方々の行動に衷心感謝しているものです、そはあの長江一帯の水災に対し取って下すった誠心な御同情についてですが、ホントにこれは未曾有の惨害なんですヨ、幾万の人間が寝食に苦しんでいます、この際お国の方々が隣邦の誼みとして人間的な愛を披瀝していられるのは私達にとってこれ程喜ばしいことはない、私はこの隣人の愛については何遍でもお礼を申したいのですヨ」

 そこで始めて日支の紛擾問題について質問すると氏は一気に次の如く語った

万宝山問題、青島事件、朝鮮事件、反日会みなむずかしい問題だと思います、決して生やさしい問題ではないのだが、私は先ず何よりも先に大局よりして両国民とも冷瀞に物を見つめることが一番大切だと確信します、大局からするということは満洲の現状、日支の状態更に大きくいえば世界の大勢から物を見るというのです、眼界を広くして局部に走らずお互の国情や歴史やお互のもってる主張感情をブチまけるのですネ、そこで初めて理解が出来、感情の一致が見出せるのです、何時の時代でも一時的感情で事をやったら過ちの基です、だから大局を高所から達観して欲しい、そして妥当な手段をとって欲しい、これが私の切望するところです

そう前提して氏は—

世間で喧しい万宝山問題にしろ大局から見たら何うでしょう?、あすこはホントに五百□地足らずの猫額大の土地なんです、いわば地方的の問題です、満洲のそしてまた中国の尨大な土地に比べたらナンと比較にもならぬ土地じゃないですか、ここを着眼してお互か慎重の態度を取って欲しい、それから朝鮮人問題これもその通りです、朝鮮人は満洲で七十万からの人がいるのだが、今一人として帰国する人があるでしょうか、何とかかとかして生活しているのです、妻子をも養っています、そしてそれでいいのだ、彼等にだって食を与えていいのだ、生活をさせて行っていいのである、満洲の土地は広い彼等を包容することが出来ないのではない、要はただ感情問題と経緯ですネ、そしてそれは大局を見るより外はない

朝鮮事件と青島事件は実に不愉快極まる問題である、中国人の中にもあの朝鮮事件—は可なり感情的になっているものもいるが、ただ静思して見るにこれは計画してからなされたものではなくいわば民族感情の勃発です、ここを考えれば両事件ともほんとのことが解って来ると思う、この一時的のものであることを考えて欲しいのである

さらに「反日会」に至っては騒ぐ程野暮な気がする、あれは一部攪乱分子の蠢動であって何等基礎深いものではないし早晩鎮静するであろうし、また鎮静させねばならないのである、国民政府だっていつ迄も黙っていやしないでしょう

中村大尉殺害事件については私は遺憾の意を表するものである、そしてこの問題に関する限り私は単に新聞の報道を読んだだけで内容は詳しく知って居らない、だから何とも申し上げ兼ねるが、ただ私一個人の考えとしては例えば中国人が日本人の身装をして日本内地を旅行した意味と同じく日本人が中国人の身装をして無秩序な辺陬の地を旅行した場合を考えて項きたい、御承知のような満蒙辺陬の状態ですから、そこのところを静観して項きたいのです、そうしたらわが国情も一層解って来られるでしょう、兎も角私はもう少し眼を大きく開いて項きたいと切望し之が日支融和の鍵鑰だと思うのです【写真は張氏】



2.

裸一環から中華民国の海上王に 会長張本政氏の奮闘史 大連華商公議会


大連華商公議会会長張本政氏は旅順近郊黄泥川の産、今年正に六十七歳、だが何うして何うして矍鑠として壮者を凌ぐばかりだ、五尺六七寸はあろうガッシリとした骨格、健康そうな赤ら顔、何処か野人の風来がある、往年立志時代に自ら鋤□とって働いたというがさこそと頷かれる

さて政記公司の奥まった居室に導かれて先ず目に入ったのは正面に紫檀の机や何かで立派な祭壇が飾ってありその上の壁間に赤緞子に金粉で「督財府」と書いた扁額が掛っていることだ「ハハァ財神を祭っているんだな」と私は思った

記者「ずいぶん色んな事件があったでしょうねェ?」

張氏「十六歳の時には何しろ親父がなくなったので私は一家の長兄として母と三人の弟妹を背負わされたのですからね、で私は断然学問をやめて雑貨屋に小僧として入ったのでした、その時の気持ちは今以って忘れられませんネ……もう一つは、日清戦争の時でした、恰度その時私は旅順に出て来て雑貨店を始めてから四年になった許りでしたが日本軍の旅順占領のドサクサ紛れで何もかも滅茶苦茶になったのでした、で仕方がないから兵站部に居られた高橋何とか云う方にお願いして日給を貰って人夫の募集をやったのでしたが私自身が実は半苦力の態でしたよ、ハッハッハッ……その時は私が二十九の時でしたネ」

まあこんな話しである、すなわち知る、彼は裸一貫から今の巨財を積み上げたことをで彼はその後どんな径路を取ったか?日清講和解決後芝罘に赴き貿易商高橋号にて一年間勤務、更に石炭船舶業梶原号にて一年間経営に従い三十五歳の時同地の徳和洋行に支配人として招聘され明治三十六年、彼が三十八の時政記公司本店を芝罘に創設した

之がそもそも彼の今日ある所以である、その後政記公司はトントン拍子に発展し、明治三十八年には本店を大連に移し逐日鵬翼を延ばして行った、彼は現に大連市会議員、同参事会員で資産は数百万といわれ個人所得税額一等、三千噸級船数十隻を有する政記輪般股●公司の総弁として押しも押されもせぬ中国の海上王とまで讃えられている、が彼の履歴の一貢を繙くとそこには涙ぐましい苦闘と不抜な鉄腕があるのである

その険難を極めた経歴の為めでもあるまいが彼は仲々物解りいい気前のいい男だ、その好例としてはよく人の口の端に上る話だが東京震災の時彼は恰度上海方面に旅行中だったが大連民政署長宛次の如き意味深長な電報を寄せたのだった

「東京震災に対し衷心弔意を表し一万円進んで寄附す」

そして直に民政署に一万円寄附の手続を取った、之などは喩え大連を舞台として今日まで築き上げた彼であるとはいえ、異国人として何と涙ぐましい情操的な発露ではないか?なお彼は慈善事業に於ても宏済善堂を主班し紅卍字会大連支部首席会長として寺児溝の施粥所を施設し其の巨大なる富力を以て貧民救済事業にも力を惜んで居らない、何と云っても名実ともに大連華商中の第一人者だ

最後に彼はいう

「世界中で今金の一番ある国はアメリカ、フランスそれから日本ですね、日本には数億円の金貨が集っているでしょうよ、それに中国には大資本家が少ないけれど日本には三井、三菱なんてトテツもない大資本家がいますね」

日本には確に中国に比べて集約的大資本家が現存していることは事実だ、だが彼自身も資本家として近代日本民衆の窮迫な生活苦を知ってるだろうし、特に大連で生い立った彼としては日本の民心も充分知り抜いてるに違いない、最近噂に上った政記公司の日本船員整理問題の如きも所謂日支民衆の共存的観点より彼として可能的円満解決を切望しているものである。

     







城记1899
还在学习大连旧城旧事老地图老照片中,不定期分享相关资料。
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