参考文章--日文全文转载

文摘   2024-10-14 07:24   日本  

这篇是有三篇文章的日本全文转载,仅供参考。


大阪朝日新聞 1928.7.17 (昭和3)


日露戦争の結果に大影響を与えた事件  当時の釜山領事 幣原喜重郎男談

日露戦争直前といえば、ちょうど僕が釜山の領事をしていた時分のこと、実をいうと、僕自身に取って余り香ばしい語り草でもなさそうだが、戦争が済んでいろいろ聞き質して見たら、この事件が意外にも日露戦争の結果に一大影響を与えた事件だったのだ。忘れもせぬ、明治三十七年二月六日の朝まだき、僕は例の通り床を離れて釜山港を一目見渡す領事館の窓からふと港内を眺めると、二三日前入港したばかりの東清鉄道会社附属商船マンチュリア号にただならぬどよめきが起っている様子、早速望遠鏡を取り出してよく眺めると確かに武装した日本の水兵がどんどんマンチュリアに乗り込んだかと思うと、今まで掲げられていた露国旗が見る見るうちに日本の軍艦旗と代ってしまった。日露の風雲いよいよ急を告げている際ではあったが、一釜山領事の手もとには果して両国の関係がどこまで進んでいるのか、到底詳細な情報を知るよしもなかった際なので目の前に露国軍艦がわが軍のために捕獲される有様を見せつけられた僕は、到底じっとしてはいられなくなった。というのは、その前の晩ちょうど入港した砲艦『大島』の艦長—広瀬武夫中佐の実兄にあたる広瀬勝比古君(当時海軍中佐)が領事館にやって来て

『ともかくも日露の開戦は目の前に迫っている、ちょうど僕は釜山の電信局を占領して、露国の通信網を断つ任務を持っているのだが一体どういう手続きをとったらいいだろう』

と僕に相談を持ちかけて来たものだ。当時露国は釜山領事の手によって京城経由で仁川、旅順に逐一の情報を送っていたのだった。僕もいろいろと思案をめぐらして広瀬艦長の相談相手となったのだが翌日早朝になると肝腎の任務を持っていた広瀬艦長は八口浦方面への出動命令を受けたといって、俄に釜山を出港してしまった。肝腎の任務を帯びている人物が俄に出発してしまったけれども、目の前には最早戦闘行為がはじまってしまったし、電信局占領については何らの任務も持っていない僕は全くじっとしてはいられない気持になったのだ。僕の焦慮はただもう無意識的に釜山の電信局を押えることを僕に命じてしまった。こうすればこうなるだろうということを予想した仕事ではなかったことはもちろん、いわば無我夢中の仕事なんだ。今から思うと実に乱暴な話に違いないんだ。コザコフという釜山の露国領事は即刻正式の公文をもって国際法違反の厳重な抗議を持ち込んだ。それによると『本官は昨日重大要件で京城に電報を発しようと思って電信局にかけつけて見ると、電信局は日本のために押えられたので一字も発信ができなかった、乱暴も甚だしいではないか』

といきまいて詰めよせて来た。しかし、僕はこんなことのあるのは早くより予期したところであったから、別に驚きもしない。コザコフに対し

『貴官も御存じのとおり、港内ではすでに汽船の捕獲がはじまっているではないか、宣戦の布告があったかどうか、それは私の知るところでないが、両国間にはすでに戦闘行為がはじまった以上、自分はもはや正式の外交文書を受領する必要を認めない』

と高飛車に出たら、コザコフ先生怫然色をなし席を蹶て帰って行ってしまった。無我夢中でやった僕の措置が一体どういう結果を生んだか当時は到底判る由もなかったが、日露の戦雲もようやく収まり僕が本省の電信課長になってからいろいろと事情を聞いて驚いたことだ。あの時もし僕が電信局を押えていなければ、露国領事コザコフは『日露間の戦闘行為いよいよ開始さる』という電報を京城に飛ばしていたし、そうなれば京城から仁川、旅順へ、とその日のうちに逐一の情報が達していたことは容易に想像せられることだ。当時仁川には四本煙突で鳴らした当時としては快速力の露国巡洋艦ワリヤーク号が碇泊していたので、仁川と旅順の連絡もうまく取れていたろう。越えて二日の二月八日にはわが連合艦隊が露国の旅順艦隊に対し奇襲を試みて見事偉大な戦功を樹て、二月十日にはいよいよ宣戦の布告となったのであるが、もしあの時露国に通信機関の自由が利いていたとしたら、幸先好かりし日露戦争があれほどとんとん拍子の成功ををさめていたかどうか大いに疑問だったと思われる。問題のコザコフは日露国交回復後最初の駐日代理大使として赴任し、過去のとは一切水に流して新な握手を交わしたことだったが、その後幾多の星霜を経て大戦中の革命勃発とともに、彼は着の身着のままで露国を脱しフィンランドを経てスウェーデンにたどりつき、同地で病を得て死んだというとを聞いて、全く一掬の涙なきを得なかった。国家の重大事や危急存亡というものが、こういったチャンスに繋っていることも決して少くないような気がして、そぞろに当時の情景が目の前に憶い出されてならない。



大阪毎日新聞 1935.4.18 (昭和10)


日露大戦正史のかげに咲く    安南の諜報物語

邦人理髪師、支那苦力頭らの冒険

三十年ぶりニュース線上へ

日露海戦当時、安南はサイゴンに住んでいた邦人理髪師、親日家の支那苦力頭、仏国の圧制を呪う安南の書記官などが織り成した正史のかげに咲きほこる大戦秘話が、このほど帰朝した一老翁によって三十年ぶりにニュース線上に躍り出た

話題の中心人物は神戸下山手通三丁目三五ノ一、百地秀一氏方森元治郎翁(六八)で、話は明治三十一年の昔にさかのぼる、当時三十一の働き盛りだった翁は海外雄飛を志して仏領インド支那サイゴンへ乗出し理髪業を営んでいた、サイゴンには当時闇の花三十名ほどがいたほかは正業をもつ邦人は三、四名でもちろん領事もおらず、翁は"日本人の顔役"として、支那人、安南人の間にもかなり名を売っていた

 明治三十七年日露が開戦した翌夏八月、サイゴンの港に入った見馴れない軍艦があった、聞けばディアナ号(七、〇〇〇トン)というロシヤの巡洋艦で旅順脱出後日本軍艦の追撃を逃れほうぼうの体で辿りついたとのことだ、同艦は入港するや直ちに仏国政府の海軍ドックで修理を加え、積んでいた弾丸や火薬は同艦長が個人的に借りうけた英船杭州号(三、〇〇〇トン)へ積み替え、その上をサイゴン米で覆うて旅順へ輸送することになった、かねて仏人の圧制を怨んでいた安南政府書記官である安南人タム氏(当時三十歳)は、親交ある森翁の母国の一大事とばかりに、このことを早速翁に知らせて来た、驚いた翁は長崎県島原崎山町出身馬場りふ子さんを妻にもち、非常な親日家である広東省潮安生れの苦力頭宝珍氏(当時三十五歳)に事情をうちあけ、その力をかりて沖仲仕を歴訪し事実の確証を握ったのでとりあえず野間香港領事あて至急報をもって密告した、このため杭洲号は香港寄港と同時に積載物は没収、船長は罰金、船は抑留の厳罰に処せられた

これが縁となり、野間領事から懇切な礼状とともに「日本のためになることがあれば、事の大小を問わず、すぐに知らせよ」との暗号電報が、森翁のもとへ届いたのはそれから間もなくのことであった


その後間もなくまたまた六、七千トン級のバルチック艦隊御用船が五十三隻、軍需品、石炭、飲料水などを満載して、ニアベ河口に待機碇泊、うち七隻が順次に旅順へ向ったがこれまた森翁らの努力で無煙炭積載のスコットランド号(六、〇〇〇トン)その他四隻は台湾海峡附近で危く捕獲することが出来た


これよりさき、バルチック艦隊が安南カムラン湾に入る一日前、翁の古い知人の紹介状をもって、シャムから飄然と訪れた福山某と名乗る煙草行商人があった、何かともてなすうち翁はこの初対面の男から「仏国政府がサイゴンにどれだけ石炭を貯蔵しているかを知りたい、自分はその調査に来たのだ、何分の御助力が仰ぎたい」と頼まれた

 翁は苦力頭珍氏と協力調査の結果サイゴンには僅か二千トンしかないことを確めて報告した、この福山某は実は当時の稲垣シャム公使の密使で、川崎造船所出張員をしていた三根織三郎氏(現在シンガポール在留)であったことが、あとで稲垣公使の礼状によって判明した


翁にはまた、こんな愉快な実話もあった、幼いころから翁の家に雇われていた安南人ボーイ、タン(当時二二)が沖人足に転業したある日、ぶらりと遊びにやって来たが、露国御用船から盗んで来たというセルロイドようの火薬原料を持っていたので、翁が「そんなものを積んでいる船は危険だから、焼いてしまえ」と冗談まじりにからかうとタンは頷いて立去ったが

 二、三日して御用船は火を発し爆発をおそれた乗組員が浸水させて沈めてしまった、間もなく顔を見せたボーイに「あれはお前の仕業か」と、翁がそれとなくもちかけると「……かも知れない」と、ニヤリ謎のような笑いで答えたとのことだ

いまでもサイゴン港の入口ニアベ近くには、沈んだ御用船のマストが海面から一間半ばかりつん出ているという


翁は大阪東区谷町の人、サイゴンには三十余年間も住み馴れたが、事情あって四年ほど前シャムに転じやはり理髪業を営んでいたが満洲事変につづく日貨排斥にたたられこのほど百地氏方に寄寓している写真出張撮影業の長男元造氏(四二)夫妻を頼って帰郷したものである

翁の話 あのころは本当に元気で、御国のためにならと大分苦労はしましたが、すべてが老後の楽しい想い出になっています、宝珍もタムも人のいい昔友達で、あの時代が懐しまれてなりません


[写真(物語の主人公森翁と稲垣公使の礼状)あり 省略]


台湾日日新報(新聞) 1934.12.22-1934.12.24 (昭和9)


スパイに翻弄され祖国を売った女性群 ()インテリ婦人売笑婦らが登場

桃色遊戯の破綻から暴露

国際政局の微妙な動きにつれ、非常時日本をうかかう恐るべき国際スパイの暗躍は極めて深刻となりその策謀と秘計の度はいよいよ巧妙となって来た。


 このとき、端しなくも駐日某国大使館付武官補佐官海軍中尉タシエーミュークロー(二七)をめぐる、日本女性の桃色遊戯の破綻から暴露された美貌の男スパイ事件は、その遣り口の悪辣さに対し、国民は極度の憎悪と反感を持たない訳に行かなかったが、美貌の男スパイに翻弄され、ついに祖国を売るに至った幾人かの女性の中には、大学教授夫人、官吏夫人、会社員の妻など、いずれも相当の教養と思慮があり、社会的地位のある名流婦人をはじめ、女子大学、女子専門学校を卒業したインテリの独身婦人もあれば、横浜本牧のチャブ屋で働いて居る売笑婦までまじって居て、同中尉の美貌と外交武官の名に魅せられた浅はかな女性群の、ただれた愛欲図絵には、日本人は一様にただ呆然たらざるを得なかったであろう

 由来、我国の女性の中には外来人といえば味噌も糞も一緒に考え、尊敬と信頼とを捧げる浅はかな者が今日までに随分あった。一部女性の斯くした浅はかさにつけ込んで、不良外人がこれまでに日本女性に対し加えた非道な行為は決して二、三にはとどまらない。今度の事件は盲目的に外国かぶれのした一部女性に対する手きびしい警告ともいうことが出来よう


満洲事変から上海事変に、我国の国際的立場が機微な動きをなすに従い、日満両国の軍事上の施設や軍需工業能力の実態に重大な関心を持った国際スパイは続々と我国に潜入し、暗躍を開始したので、当局では外事専任の憲兵を増員し水も洩らさない厳重な警戒網を張って居たが、今回の美貌の男スパイ事件が発覚されるに至ったのはこの愛欲地獄に踊った女性間の葛藤からであったことは、例の欧洲大戦中に、列国のスパイ網を縦横に荒らし廻った女スパイのマタハリを逆に行った猟奇的な語草ともいえるであろう

 クロー中尉は昭和六年六月、某国の東洋艦隊乗組員となって横浜に入港したことがあるが、その帰途、上海で上陸して同地の諜報機関員となった。上海事変の際には、同地に在った輝子こと門無冬子という日本婦人を巧にスパイに利用して我が陸戦隊の行動をつぶさに探索した。この功によって昭和八年五月、駐日大使館付補佐官に抜擢されて東京に来り、表面は語学研究と称し、来朝以来、住居を転々と移して常に日本婦人と日本語教授を囮りに誘き寄せ、武官補佐官としての身分保障のあるのを利用し、近づいた女性は片つ端から毒牙にかけ、これを手先きに我が軍機や軍情、国情等を調査して居た。大体昭和九年五月下旬に帰国の予定となっていたが、悪辣ながら俊敏なその諜報成績を上司に認められ、さらに一ヶ年の駐在延期となったといわれて居る


クロー中尉が最近まで暗躍の根拠としていたのは東京渋谷区代々木西ヶ原九二〇西ヶ原アパートであるが、同中尉は日本に渡来してから今日まで、殆んど大使館には出勤していないそして、閑さえあれば日本語の家庭教師という名目で、日本婦人を必ず同伴し、参謀本部発行の地図を携へ、東京湾をはじめ、豊予、呉、函館等の各要塞地帯を旅行し自動車や船舶を用いるだけでなく観光旅行だという振れ込みで、数日がかりで現場を徒歩で詳細に踏査する外、某省官吏夫人谷川はる子(仮名)を手先に使って水交社に出入させ「戦争と需要」「南洋群島について」などの海軍省発行のパンフレットをはじめ、軍事関係部外秘密となっている書籍類を入手して詳細に翻訳させたり、日露戦争当時に於ける我が海軍の作戦秘史を蒐集したり、或は商人を装い民間の軍需工業会社に照会して軍需品の製作状況ぶりを調査するなどあらゆる手段を用いて軍機軍情の蒐集に狂奔する一方、日本婦人を次から次に取り替え愛慾の満足にふけって居たという

クロー中尉のなした奇怪な行動は、昭和八年十二月初旬に長谷部みのる夫人を伴って三浦三崎にドライブして、油壺をはじめ東京湾要塞を極めて詳細に踏査し、見取図を作製して引き揚げたのが振り出しとなって居り、本年四月上旬には東京居住の某国人と共に塚本夏子を伴って房州の保田海岸に到り、同所を根拠として館山の海軍航空隊附近に至る千葉寄りの東京湾要塞を踏査した外五月には近畿、中国、四国、九州地方を観光客を装い一ヶ月に亘って踏査し一たん東京に帰ったが、七月中旬から下旬にかけ今度は方向をかえて北陸地方に赴き我が対満貿易の輸出港たる敦賀、伏木、新潟等の港湾設備から水深等まで調べあげ、八月中旬から下旬にかけてさらに東北、北海道、佐渡地方の軍要地域、都市、要塞地帯を探った、これ等の旅行には女子大学出の富樫美弥子を常に同伴していた


クロー中尉が各所から入手した書籍はいずれも関係のある日本婦人に翻訳させたものを刻々に某国大使館附武官房某少佐の手許に提出して居り、前記谷川はる子の手を通じて得た海軍省発行のパンフレットは、本年七月に北陸地方を視察しての帰り途に、長野県渋温泉に滞留しているとき富樫美弥子が翻訳して居る、以上のようにクロー中尉が日本婦人を使って調査したり盗んだものは二十数件という多きに達し、それ等の中には軍機上から外国に手渡されてはならない地図をはじめ列強に誇る我が海軍諸艦艇の性能とか装備及び機密図等が多数に含まれて居るといわれて居る、クロー中尉のため甘言にたぶらかされた揚句、貞操を許してスパイの手先となった日本女性で東京憲兵隊の取調べを受けた者だけでも、本稿執筆当時に既に十五名に達して居るが、或いは取調べの進行によっては未だ数人の売国女性を出すかも知れない

 東京憲兵隊当局がこの事件の端緒を握るに至ったのはクロー中尉に身も心も打ち込み甘んじて其の手先となって居た仙台生れの八鋤秋子が、中尉の寵を自分独りでほしいままにしていると考えていた所、中尉は仕事と愛慾を両天秤に、次から次へ美しい女性に移り歩き出したため、嫉妬を感じ裏切られた愛慾は深い怨恨となり、遂にアパートで見苦しいいさかいを交すようになった機敏な中尉は秋子の転心を察し、早くも先手を打って事情が外部へ洩れるのを恐れ、可成り多額の手当を支給して昭和九年九月関係を断ってしまった、中尉に対する復讎を企て機会を狙っていた秋子は自分の犯して来た行為を省みると空恐ろしくならずには居られなかったのである、スパイの手先となり、身までまかせて国を売った女ではあるが、秋子の心にも祖国愛は猛然と蘇えって来た、彼女が赤坂憲兵分隊に訴え出たのは昭和九年の十月中旬のことであった、同分隊では直ちに実情調査をなすと共に東京憲兵隊特高課に事件を報告し、同課及び渋谷憲兵隊の応援を得て約二ヶ月に亘り外部的証拠の蒐集につとめた結果、事件の全貌は発覚されるに至ったのである

 どんな女性がスパイの手先きになったか、東京憲兵隊の取調べを受けた十五名の中からその主なる氏名と取調べを受けた事件の内容を次に示そう


谷川はる子


既に関西に転居して居るが某省の高級官吏の夫人である、大正六年三月東京の某女学校専攻科を卒業してから仏蘭西語の通訳や翻訳に従事して居たが大正十五年に某省官吏の谷川と結婚した、昭和八年六月某所の夜会でクロー中尉と知り合いになったが、八月に夫君の眼を盗んで大森の某ホテルで深い関係が生じ、それ以来水交社書籍部をはじめ、某予備海軍少佐が経営して居る芝白金町今里町の書店から軍事書類を購入し、自分の手で翻訳したり我国の軍事事情の探知や蒐集に便宜を与え中尉の甘心を買うことに努めて居た、独身時代から外人異性とは種々問題を起していた女性だそうであるが、事件発覚当時は三十五歳、相当に身分を考えてもいい年頃であった

西崎浅子


父親は某製薬会社社長、某ホテル重役、夫人は某大学の教授である、現に四谷区花園町に居住して居り、芝の聖心女学院を卒業の後、欧米諸国を旅行して帰京後西崎教授と結婚した、二人の中に子供がない所から、夫婦はよく前記のホテルに出入していた、浅子が中尉に紹介されたのは同ホテルの社交場で昭和八年十一月のことであったが、翌月には早くも麻布区市兵衛町の山形ホテルで中尉に二十九歳の分別盛りの女性でありながら身をまかせたという徹底した不倫ぶりである

 その後、大森の砂風呂、丸子玉川、渋谷三業地、中尉のアパート等で人目を避けて不義を重ねていた、中尉は浅子がタイプライターが巧妙なのを利用して「旅順閉塞船」の翻訳をタイプせしめたばかりでなく、浅子の社会的地位を利用して情報の蒐集につとめて居たが、この方は大したことは得られなかった模様であるが、浮わ気な中尉に似合わず、浅子との関係はずっと事件発覚直前まで継続されて居たという話である

長谷川みのる


赤坂区青山高樹町の某会社員の妻で二十八歳名古屋で高等女学校と専門学校を卒業し昭和七年上京して結婚したその後、東京に居住する外国人の日本語教師に雇われて居たが、非常に虚栄心の強い女性であったためか、よく問題を惹起して居たらしい。中尉に雇われたのは昭和八年七月であったが、その日からダンスホールや映画館の遊び相手となり、次第に深みに入り遂に夫の眼をしのび大森の待合や山形ホテル等で泊りを重ねて居た。三浦半島の東京湾要塞地帯へ中尉を案内したのはこの女性である

富樫美弥子


富山県中新川郡音杉村北島の生れである。昭和二年三月に神田の仏英和高女を卒業し同六年三月目白女子大学の家政科を出た。昭和八年十月、ジャパンタイムス紙上に「語学の交換研究を希望す」との広告をした所間もなく申込んで来たのが中尉であった。最初は語学の交換だけで月給四十円の約束をしたのであるがいつの間にか貞操まで提供するようになり、赤坂区溜池の不二アパートを振り出しに転々と数ヶ所を夫婦気どりで同棲、検挙された時にも、中尉と同じアパートの一室を借り受け、清川美子と称しアパートの外からかかって来る電話の取り次から身の廻りまで、まるで妾同様になって世話を焼いて居た外、中尉が中国、四国、九州、北海道等の各地の軍事施設や要塞の視察に赴いたとき、これに同行して官憲の眼をカムフラージしたり地図と現地を対照して説明するなどの便宜を与えた。美弥子の長姉は某高等師範の教授、次姉は目下売出しの某著述家夫人である。二十五歳という若い身空でありながら、極度に日本官憲に対し反感を持って居る女である。

八鋤秋子


前にも書いた通りこの女性がこの事件発覚の端緒となった訴えをなしたのである。麻布区六本木の某アパートに止宿して居るが、仙台の高等女学校を卒業後、横浜の某英人方の女中を長い間して居た。昭和八年七月から本年四月まで中尉の語学教授兼女中として雇われているうちに深い仲となり、中尉は秋子をも手先きに利用せんとしたが、沢山の女性を毒牙にかけている中尉に反感を抱き遂に解雇されるに至ったのである

葦川きせ子


横浜市中区一の二八に居住して居て、現在は米国貨物船ゴールドスター号乗組員の妾をして居るが、昭和四年十二月から同九年春まで、本牧町第一キヨホテルでチャブ屋女として働いて居た時、昭和六年五月横浜に入港した中尉と知り合いその後、中尉が上海に駐在していた頃にも深い交渉があった。中尉は女の実父が千葉県に居るのを知って渡日後、わざわざ同女を伴って千葉県下の実家を訪問し、種々な贈りものをして歓心を買い、房州方面の調査の手先に使わんとした模様である

門無冬子


神戸のパルモア英語学校を卒業し直ちに渡支して以来、四十歳の今日まで漢口、南京、香港、上海等の国際都市を踊るX27号的存在であった。中尉が上海駐在中、上海事変の際にはその手先となって我が遣外第三艦隊の行動を始め我が陸戦隊の動静を細かに調査、中尉が駐日武官附となる動機を与えた女で、現在でも同中尉は冬子を通じて上海方面に於ける我が軍情をスパイして居る疑いがあるといわれて居る。

次初子


大正六年三月甲府の高等女学校を卒業し、東京音楽学校に入学したが中途で退学した。大正十二年にクロー中尉と同国の駐在武官A大尉、B大尉、C少佐等の語学教師となったが、この間に両大尉とは深い関係となり共同妾のような生活をして居たものでA大尉が帰国して中尉が来朝するとき、この女を中尉に所謂「申送り」したものだという

社会的に相当な地位にある者とか有夫の婦人を巧にまるめ込んで手先に使った中尉も怪しからんが、あやつられて居た婦人も全く、日本女性の面よごしであろう。外人とさえ見れば、見さかいなく頭を下げて行きたがる一部の我が女性の迷夢をこれが動機となって醒めて貰わなければなるまい。中尉と深い関係を結んだ女性たちが異口同音に「最初の会見からどうしても離れることが出来ぬ不思議な魅力に引きつけられた」と告白して居ることなどは、いよいよ以て醜態である()



城记1899
还在学习大连旧城旧事老地图老照片中,不定期分享相关资料。
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