椰子の会・共和友の会主催の新春会、東京で盛大に開催

2024-03-06 16:32   日本  

椰子の実会の小林憲明会長と中国大使館の王琳公使参事官。


2024年2月29日夕方,椰子の実会(日本八路軍・新四軍会)(以下椰子会という)・共和友の会の新春会は東京文京区・萬福餃子房で開催した。日本関東地区の会員、友人及び来賓の40名は出席し、共同で日中友好亲善交流会を開催しました。

中華人民共和国駐日本大使館政治部の王琳公使参事官、岑松一等書記官、黄宇宏アタッシェ、椰子の実会小林憲明会長、共和友の会水戸洋会長、関東平和友好会新宅久夫会長、原NHK放送センターの翻訳神崎多実子先生、NPO法人東方文化交流協会高山英子理事長、落語家らぶ平師匠、東京中医学研究所塚田维良所长等が新春会に出席しました。

司会は椰子会の小林憲明会長が行いました。彼は小林寛澄の長男で、1984年に、三千の日本青年訪中団の一員として胡耀邦総書記に接見された。


友の会の水戸洋会長開会の挨拶をした。


駐日中国大使王琳公使参事官様、岑松一等書記官様、黄アタッシェ様の素晴らしい方をお迎えして、「椰子の実会」と「共和の会」の合同による親睦会を開催された喜びと、御出席くださいました皆様に共和友の会の会長として御礼を申し上げます。

共和友の会は政治、思想等に一切、関わらず、いかなる団体にも所属をせず、争いのない平和で平等の社会において世界の皆様と共に経済、文化交流を推進し、平和で友好的な人間関係を構築することする目的にしております。

共和資材株式会社、代表取締役、故、加藤昭江社長が築いた日中国交正常化後の中国、日本の経済、文化交流の「架け橋」となり、北京日中友好病院の開設に貢献され、新日鐵、松下産業の松下幸之助様、イトーヨーカ堂の伊藤会長、日清食品会社会長、社長等を多数の日本企業を中国に誘致し、両国の経済の発展に寄与し、経済、文化交流に大きく貢献した加藤昭江さんを中心に発足した会です。


左から:神崎多实子、中国大使馆的岑松一等秘書官、高娃。


加藤昭江さんは女八路軍、ご主人は新四軍で「椰子の実会」の皆様のご両親、関係者の皆様と大変な苦労されたと聞いていますが、故、加藤昭江社長の産んだ子供さんは女性三人で、男である私を自分の息子のように可愛がり、中国に一緒に何回も訪問しましたが、私に教えたことは「話したら負け」と当時の八路軍の戦時中を話すこともありませんでした。

日中の平和に貢献された先人を忘れることなく今後も「椰子の実会」、「共和友の会」との末長き交流をお願い申し上げます。

最後に親睦会にご出席くださいました、王琳公使参事官様、岑松一等書記官様、黄宇宏アタッシェ様、ご参加された皆様のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。


王琳公使参事官を囲む会員たち。


駐日中国大使館王琳公使参事官は乾杯の音頭を行いました。

ご臨席の皆様、こんばんは。新年おめでとうございます。

中国大使館政治部の王琳と申します。本日の椰子の実会、共和友の会新春日中友好親善交流会に参加させていただき、古い友人と再会し、また新しい友人ができて、嬉しく思います。

昨年は、中日平和友好条約締結45周年という節目の年であり、コロナ収束後の最初の年でした。中日双方がともに条約締結の初心に立ち返り、平和友好の信念を固め、積極的に一連の対話を展開し、各分野での交流と協力を回復させ、強化してきました。特に、11月には、習近平中国国家主席と岸田首相がサンフランシスコで会談し、中日の4つの政治文書を厳守する原則と共通認識を重ねて表明し、中日両国の戦略的互恵関係の全面的推進について改めて確認し、新しい時代の要求に相応した建設的、安定した中日関係の構築及ぶ両国の交流・協力の深化について一連の重要なコンセンサスに達し、中日関係の改善・発展に、明確な方向性を示して下さいました。

中国、日本は同じアジアの重要な国として、アジアの未来に共通の責任を負っています。新たな問題、新たなリスク、新たな挑戦に直面して、両国民間はより優れた伝統を発揚し、よく連帯し、積極的に行動し、新時代の中日関係の改善と発展を推進する歴史的使命を担うべきだと思います。

ご臨席の椰子の実会、共和友の会のみなさんそして一部の方のご両親たちが戦争反対し、平和を愛する方々で、新しい中国の成立と建設のため、また中日両国友好の促進のため、多大なご貢献をしてくれました。ご敬服の意を申し上げて、感謝を申し上げます。

これから、中国大使館は椰子の実会、共和友の会の活動を応援し、中日両国との民間交流を促進するよう望んでおります。

最後に、さかずきを借りまして、乾杯の音頭をさせていただきます。椰子の実会、共和友の会のますますのご発展のため、ご臨席の皆様のご健勝とご活躍を祈って、乾杯しましょう!


椰子の実会の小林陽吉副会長から椰子の実会の歴史を紹介しました。


椰子の実会の第一世代の会員は、我々の父親たちで、元々日本皇軍で、銃を持って中国軍隊と戦っていた兵隊さんでした。中国の戦場で作戦し負傷し、中国共産党の指導する八路軍、新四軍の捕虜となりました。そこで教育されるにしたがって、思想的にめざめ、侵略戦争の性格をわかり、ついに反戦、平和の戦士に変わりました。在華日本人反戦同盟という組織を創立して、中国軍隊と共に、戦場に出ていき、日本軍兵士に対する様々な宣伝や、働きかけを行ないました。日本軍国の戦争を一日も早く辞めさせ、日本と中国に平和を一日も早くもたらすために、八路軍、新四軍と兄弟のように腕を組み、生命の危険をおかして、前線で反戦の活動を続け、その為に日本軍の弾丸で傷つき、あるいは殺された者さえあったことであります。

こうしたことは、世界の戦争史でも例はあまりないと思います。

そして、彼らの行動は、中国抗日根拠地ではありますが、その目的を達成することができました。そのことは、日本側も、中国側もみとめていました。

もう一つ大切なことは、彼らの行動が、中国人と日本人との友好関係を作り出すうえに非常に大きな貢献をしたということです。つまり、日本の侵略者に深い憎しみを持つ中国人に、日本の軍閥と人民とは別であり、日本人民は敵ではなくて友人であることを、彼らは身をもって示したものであります。

中国人民に与えたこの影響は、日中両国の親善関係を促進する一つの土壌となっています。

終戦後、彼らは五十年代の半ば頃に日本に帰国しまして、1970年に椰子の実会を設立し、その時には、八路軍、新四軍とは言えないため、椰子という発音は八、四との意味でありますので、それを名付けられました。彼らは自分自身の経験と経歴を集会で講演し、本を出版することによって、真実の歴史を次の世代に教え、より多くの人に知っていただき、日中友好は容易なことではなく、それを大切にし、日中人民は代々友好的に続けなければならない。

戦争に反対し、平和を守る。日中友好に尽力することが、この三つの原則は我々次世代の宝となっています。第一世代の会員の方々が世を去るのは残念でありますが、我々は先輩の意志を引き継ぎ、若い世代に引き継いでいかなければならないと決意を致します。


和気正子さん


共和友の会の和気正子事務局長から共和友の会の歴史を紹介しました。

共和友の会は中国と日本の架け橋となった創始者加藤昭江が関係者の要請を受け、世界の平等、互恵、平和、政治不干渉、各国の法令等を尊重することを原則に日本、中国の相互間の発展を目指し共和友の会を発足しました。

現在では参加国はカザフスタン・スリランカにも活動が広まっております。また、共和友の会は会員を募り、相互の会員の交流により親愛と友情の絆を築き、会員同士の正しいビジネス情報の交換、企業等の紹介、商品等の紹介または教育指導等により安心安全の貿易、取引、中国を始め海外諸国の許認可の取得等をはじめとした経済・文化・医療・教育等を目的とし活動しております。

故・加藤昭江先生

1945年11月に、加藤昭江が17歳の時、有名な回民支隊政治委員の丁鉄石将軍の紹介で東北民主聯軍に参加し、中国革命に身を投じた。加藤昭江は日籍解放軍老戦士の傑出した代表で、解放戦争で中国戦友と共に遼沈戦役、平津戦役などの重大戦役に参加しました。正義と平和のために自分の血と汗をささげた。新中国成立後、引き続き極めて厳しい条件の下で、新中国の建設事業に貢献した。

1958年に日本に戻った後、共和資材株式会社を創立し、長期的に日中民間貿易に専念し、日中友好を推進し、実践し、中国の経済発展に関心を持って支援し、日中友好活動及び貿易を積極的に展開しました。上海宝山鉄鋼会社、北京中日友好病院を設立し、解放軍総病院に輸入した医療設備などの事業に生涯を尽くした。両国人民の友情を増進するために積極的な役割を果たした。

加藤昭江さんは2019年6月12日に病気で91歳で亡くなりました。

共和の友会と椰子実会は7月17日に江東公会堂で偲ぶ会を開き、加藤昭江さんを追悼しました。

加藤昭江の偲ぶ会で、中国駐日本大使館、中国国際友好連絡会など多くの中国機関から弔電が来ました。このような先輩を失ったことをとても悲しんでいます。

加藤昭江は中国人民の古い友人、古い先輩です。共和の友会は永遠に彼女の貢献を銘記し、彼女の遺志を継承し発揚し、彼女の未尽の事業を推進し、日中友好事業を引き続き発展させます。


その後、来賓各位と会員たちは自己紹介を行いました。


落語家らぶ平師匠は日本の名作の漫才俳優です。彼は臨機応変で、有名な野球選手の大谷翔平が電撃の結婚したニュースで、ユーモラスな言葉、面白い冗談でみんなの笑い声を引き起こし、新春会の雰囲気がクライマックスに達しました。

神崎多實子先生から挨拶は以下の通りです。

私は東京生まれですが、1937年2歳足らずの時に、父が「満州国」の首都-新京(長春)の大陸科学院(現長春応用化学研究所)へ赴任したのに伴い、中国へ移住しました。父は主にウランをはじめとする放射性元素の研究をしていた関係で、敗戦後も中国に「留用」され、1953年に帰国しました。

戦争中、私は国民学校に通い、中国語はできませんでしたが、1949年夏に父が勤務していた長春東北師範大学の付属小学校三年に編入学し、中国の学友とともに学び、学校側の特別の計らいで、四年余りで同校附属高校まで昇級させていただきました。

帰国後引き続き日本の高校で学び、1955年初め中国からの帰国者を対象にした通訳一般募集があり、合格した。その年の春に中国第一次貿易代表団が来日、まだ高校在学中でしたが、通訳として京劇代表団など数々の訪日団に随行しました。その後北京の人民画報社で翻訳、日本の銀行の通訳、またNHKBSで放送通訳などを務めました。

一昨年、30年余り行なった放送通訳もリタイアしましたが、その現場について少しご紹介したいと思います。

先の戦争においては「大東亜共栄圏」をかかげ国を挙げて、まるで草木がなびくように「満洲」へと進出しましたが、最近の日中関係を考えるとき、メディアのもたらす影響は非常に大きいと思います。もちろんNHKには、「シルクロード」など多くの素晴らしいドキュメンタリー作品がありますが、一方でニュース番組の取捨選択などでは与党の意向が強く反映されているのも事実です。

私の具体的な作業は中國中央テレビの中国語ニュースを聴いて翻訳し、定時に放送することですが、例えば2022年3月、私が担当したニュースに中国紅十字会(赤十字会)がウクライナに対する人道支援を行なっている、という30秒程度の短信がありました。支援物資は、食品や薬品、それをトラックに積み込んでいるシーンですが、これを放映するかどうか、通訳の現場で決められない。つまり中国イコールロシア寄りという与党の観点からすると、ウクライナに支援物資を送るというのは、その趣旨に反するということです。そこで上にお伺いをたてて、この場合は結局事なきを得て、放送はされましたが、このように政権の意図することに見合うか否かによって左右されるわけです。

また通訳仲間から聞いた話ですが、福島第一原発の汚染水の海洋放出の問題について、中国外務省の報道官が“核汚水”と報じている、忠実に日訳すれば「核汚染水」です。しかし「処理水」と通訳するように求められる、これでは誤訳になってしまう、すったもんだした挙句、「汚れた水を海洋に放出」、つまり「核」抜きで、「汚れた水」と放送されたそうです。

さらに様々な所に設置されている「カメラ」にしても、日本のそれは「防犯カメラ」、対する中国の場合は「監視カメラ」と表現する、防犯か、監視のためかによって視聴者に与えるイメージは大きく異なります。「島」の問題にしても中国外務省報道官の“釣魚島”をそのまま「ちょうぎょとう」と通訳したものの、画面横には「沖縄県尖閣諸島」と表記されています。

私は国家が存在する以上、メディアは国のために寄与する、それは何処の国でもそうだと思います。ただし昨今、民主的で公正と言われている日本のメディアの傾向をみていると、相互誤解を招く結果となり、ひいては再び「新たなる戦前」の到来かと懸念せざるを得ません。                

「八一小学」日本の同窓生代表の安達猛は今年82歳で、とても健康で、皆さんに自分の健康の秘訣を紹介しました。安達猛の父は安達仁で、叔父の安達繁は1945年に中国共産党北平城工部長劉仁が手配し、家族9人と全ての医療機械を持って解放軍華北軍区和平(白求恩)病院に来ました。前線で1000人以上の負傷者を治療し、徐向前、彭徳懐などの将軍に病気を治した。安達猛は北京の「八一小学校」を卒業した後、1953年に日本に帰国しました。


最後に関東平和友好会新宅久夫会長が閉会の挨拶を行いました。


日中平和友好会は林弥一郎氏によって創設されました。林弥一郎は元日本関東軍第2航空軍団第4練成飛行大隊長です。この大隊は300人余り、各型飛行機40機余りで、日本空軍の機動性部隊で、「隼」式戦闘機を使って他の兵種から派遣された初級指揮官と学生出身の見習い官兵を訓練する任務を担っています。

関東軍が降伏した後、彼の飛行大隊は東北民主聯軍に留用され、1946年3月に解放軍に最初の航空学校「東北民主連合軍航空学校」を設立するのを協力ました。これは中国空軍の“摇篮”ということです。林弥一郎と日籍の教官たちは自ら120人の中国人パイロットを訓練し、その後14人の女性パイロットを訓練しました。この学員たちは後に中国空軍部隊創設の基幹となりました。

彼らの中には新設された航空学校の指導者と教員になり、各軍区の空軍部隊の各級指揮官と戦闘員になり、後に勃発した朝鮮戦争で腕を発揮し、大量のアメリカの飛行機を撃墜して負傷させ、空軍の戦闘英雄になりました。


1954年に、林弥一郎は日本に帰国し、生活が苦しくて、政治的な圧力も大きいにもかかわらず、林弥一郎は積極的に日中友好活動に従事した。生涯の重要な転換を記念して、彼は「日中平和友好会」を組織し、日中友好に大きく貢献した。活動地域が広いため、日中平和友好会は関東平和友好会、関西平和友好会との二つ組織となりました。

新宅久夫の父親も日本が降伏した後、解放軍に東北に残された技術者で、中国の解放戦争に自分の知恵と力を貢献しました。

関東平和友好会と椰子実会は兄弟のような関係であり、先輩の遺産と精神を継承し、日中友好事業により大きな貢献をし、日中人民を代々友好にさせると語った。

最後に、皆様は余興が尽きず、名残惜しく、王琳公使参事官を囲んで記念写真を撮りました。新春会は喜びと友情の温かさに満ちていて、新旧の友達も笑い声が響いて、寒い夜に消えていき、新春会は楽しい雰囲気で円満に閉幕しました。

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