展览回顾 | 千叶成夫谈徐升 — 向天之彼岸的询问

乐活   2024-05-27 09:22   北京  

十六种方式指向天空——徐升个展



文/ 千叶成夫

译/ 王英杰


1. 彫刻という芸術 


一人の人間が他の何者かではなくて美術家になるのは、美術家となりうるのは、たった一つの、限られた方向に引き寄せられていくことによってである。ほとんどの場合、美術家自身は引き寄せられていく理由を言葉にできない。美術とは、肝心なところは「感覚の事柄」だからである。そして同じ美術といっても、彫刻と絵画はそれぞれ別の、それぞれ異なる方向だから、本質的には彫刻家は画家たりえないし、画家は彫刻家たりえない。徐升が捉えられたのはもちろん彫刻である。


1.雕塑艺术


一个人之所以没有进入其他领域而就是成为艺术家,一定是有某种原因将他吸引到这个方向上来。大多数情况下艺术家自己对此原因也道不清说不明。因为艺术最重要就是感觉。虽然同属美术范畴,雕塑与绘画不同,方向也不同,所以,本质上雕塑家并非画家,画家也非雕塑家。当然将徐升吸引进这扇门的是雕塑。


彼は他の形式でもけっこう適応力がありそうだが、やろうとしているのは彫刻 である。彫刻といっても、木で仏像を彫ったり、石や金属で美女の姿を作り出す ことではない。だからといって「抽象彫刻」でもない。さらには、ある空間ない し環境を作品化したり作品の内に取り込もうとするという意味での「インスタレ ーション・アート」でもない。従って17世紀以降の西洋近代美術がその究極の20世紀に展開した「彫刻」のいづれとも、それは違っている。まちがいなく、彼は 世界の現代美術の最先端の状況に敏感なのである。いま彫刻とはどういうもので あるべきか− この問いかけが無ければ、いま彫刻作品は成り立たない。それを美 術家が頭で考えているだけでも駄目だ。作品そのものなかにこの問いかけが存在 しなければ、あるいは作品が問いかけそのものになっているのでなければ、今、 それは美術作品ではなく、過去にあったものの焼き直しにすぎない。 


尽管徐升也许在其他领域也有相当的适应能力,但是他选择将雕塑这条路一直走下去。虽说是雕塑,但是并不是用木头塑佛像,不是用石头金属等雕塑美女,不是抽象雕塑。也不是将空间环境作品化的装置艺术。也不是17世纪后在20世纪发展到极致的西洋艺术里任何一种雕塑。毋庸置疑,他对世界现代艺术的前沿十分敏感。如果没有“现在的雕塑应该成为什么样的雕塑”这样的询问,那么现在都不能算得上雕塑作品。艺术家的脑子里必须思考这个问题。如果作品本身没有有这样的探询,或者说作品本身不是在做这样的探询,那么现在这不是艺术品,仅仅是对过去已有之物的修改而已。


徐升,随机风景之水图

600 * 120 * 120cm 保利龙 2016



2.作品の姿


徐升の作品を見ていて僕の脳裏にまず浮んでくるのは水平と垂直、横への広がりと縦への広がり、両者のあいだに存在する物や事、両者のあいだの動き、両者の相関関係、といったことである。


2.作品形象


看徐升作品时浮现在我脑海里的是水平与垂直,水平的伸展和纵向的延伸,两者之间存在的物,事,两者间的运动及两者的相互关系这些。


《Landscape today》には水平への広がりが、《Stand upright》《Six flap》《Emerge》 には縦への広がりが、そういうものとして捉えられている。《Double peaks》《Point to the sky》《Look up》《Stratosphere》では天と地のあいだに在るものが、天と地と を繋ぎながら、示されている。《Coil》《Circulate》では両者のあいだの(さまざま なものの間の)関係が暗示されている。


《Landscape today》我看到的是水平的伸展,《Stand upright》《Six flap》《Emerge》里我看到的是纵向的延伸。《Double peaks》《Point to the sky》《Look up》《Stratosphere》呈现的是天地间存在之物和天地的关联。《Coil》《Circulate》则暗示了两者间的关系(各种事物之间的)。



徐升,今日景观一 Landscape Today

180*60*5cm 大理石 2017



そして、どの作品の「形」も、特定の何かの形ではなく、たんに抽象的な形な のでもない。そのどちらでもないことによって作家である徐升の感性と主題へと 僕たち観客を直接的に導いていく。「直接的に」とは、現実の世界にある形(仏の 形、美女の姿、山の尖峰の形)を介してという迂回路を通ることなくという意味 である。 


所有作品的形象既不是特定的形也不是抽象的形。徐升就是靠此将我们观众直接引向他的情感与主题。这里的直接指的是不通过现实世界的形(佛像,人体,山峰)等弯路。


《Under the surface》の「表皮」とは特定のものの表層とか表面ということではなく、もの・地面・世界の表面そのもののことである。《Under the dome》はその全体が蒼穹の構造(すなわち天の上・天・天の下・天の下の下)の譬喩であることによって、天と地の関係の在り方に(ここでは鉄という素材を通して)一つの物質感、あるいは確かな手応えの感触を与えている。


《Under the surface》的表皮不是特定事物的表层或表面,而是事物.地面.世界的表面本身。《Under the dome》通过整体作为苍穹(天上面,天,天下面,天下面的下面)的比喻,给予一种天与地关系状态(通过锈石这一材料)的物质感或切实的手的触碰感。



徐升,表皮之下  Under the surface

80*80*10cm 大理石 2016



《All direction》《Thorn》では、他の作品群とちがう鋭い材料(ステンレススチール)を選んで、徐升は自分の造形思想のいわば「核」を裸にして見せている。 


徐升在《All direction》《Thorn》中选择了和其他作品不一样的锋锐的材料(不锈钢),将自己的造形思想赤裸的呈现出来。



徐升,所有方向 All direction

140*140*160cm 不锈钢 2017



徐升,刺 Thorn

135*110*110cm不锈钢 2016



3.存在と生命が湧出する


《Landscape today》は今回は3点展示される。それらは、とくにその《一》と《二》は、ふつうには庭園のように見えるだろうし、そう見ても悪くはないかもしれない。いわば想像上の庭園、抽象化というより観念化された庭園というわけである。しかし、本当はそうではない。《一》と《二》で「石(庭石)」のように見えるものは何だろうか? 徐升の発想の元は庭石かもしれないが、下から湧き出てくるものといった表現に注目しなければならない。大地のなかから現れ出てくるような、あるいは世界のなかにいま生れ出てくるようなその様子が印象的である。《三》ではその湧出じたいが中心テーマのようになっている。 


3.存在和生命的喷涌


《Landscape today》这次展示了三个。它们,特别是其中《一》《二》看上去就像庭院,这样看当然也不坏。比起说成是想象的,抽象化的庭院其实应该说是观念化的庭院。但是实际并非如此。其中《一》《二》里看上去像石头(庭院石)的究竟是什么?也许徐升原本想表达的是庭石,但是必须看到物体从下面涌出这样的表现。从大地中喷涌而出,或是世界当中孕育而生的形象是印象深刻的。在《三》中,涌出本身成为中心主题。


徐升,今日景观 二 Landscape Today 2

100*45*10cm大理石 2017



徐升,今日景观 三 Landscape Today 3

70*60*10cm 大理石 2017



僕が感ずるのは、ここで「石(庭石)」のように見えるのは、物質と存在の発生の姿の表現、ないしはその譬喩にほかならない。とするなら、作品全体のテーマは世界ないしは自然界におけるものと存在の登場ということである。そして作品題名に着目するなら、徐升はそれを現在の世界の状況に重ね合わせようとしているらしい、と言うこともできる。


我感觉看上去像石头(庭石)的物体只能是物质和存在产生状态的表现乃至其譬喻。这样的话,整个作品的主题就是世界,自然界的物体及存在的登场。因此,我们看作品题名的话,可以说徐升想将此与现在的世界状况相重合。


他方、題名から離れて作品じたいを見ると、この彫刻は発生しつつあるいわば生命の泡のようなものと「仕切り」のような部分と「地」、その3要素から成っている。「仕切り」のような部分は人工的なもの、例えば街とか城壁とか、そういうものを感じさせる。「地」の部分は水(海、湖、池)のようにも大地のようにも見える。 


离开题名回到作品本身,雕塑由三个要素组成:不断产生的类似生命泡沫一样的物体,“间隔”一样的物体和“地”。类似“间隔”一样的部分给人感觉是比如街,城壁之类人工的。“地”的部分看上去既像水(海,湖,池)也像是大地。


床に平らに置かれているが、その下に地中とか、もっと抽象的にいえば生命の根源としてのカオスとかを感じさせる。それが「地中」であるにせよ「生命の根源としてのカオス」であるにせよ、平面的というか平らなのにレリーフ的というか、この作品はこれまでに類例のない、なかなか魅力的なものである。


虽然是平放在地板上,但能让人感受到下面的地底,或者更抽象来说感受到作为生命的根源的混沌。地底也好还是作为生命根源的混沌也好,是平面的也好还是尽管是平的但是是浮雕类似的也好,这都是迄今少见,相当有魅力的作品。


4.空の彼方へ行きたい


生れ出る生命の泡のような形体は《Stand upright》《Emerge》《Six flap》にも登場する。こちらの作品では軸線は縦方向、上下方向だ。「生命の泡」は途中では未だ窪みでしかなく最上部でやっと「泡」を形成しているものもあれば、3回「泡」を形成しつつ上昇しているものもある。《Emerge》では軸線が2本、表現されている。《Six flap》には「泡」は登場せず、「泡」の発生の直前ないし直後のような感じで、軸線を6面で形成し、6つの異なった次元ないし位相を暗示している。 


4.想去天之彼岸


像生命诞生的泡沫的形体出现在了《Stand upright》《Emerge》《Six flat》作品里。这些作品中,轴线是沿纵向,上下方向。 “生命之泡”,有的在中途还只是低洼,到最上面终于形成“泡”,也有一直上升三次形成“泡”。《Emerge》中,轴线有两条。《Six flat》里没有出现“泡”,给人 “泡”在刚产生前,产生后的感觉,在6面形成轴线,暗示6个不同的次元甚至位相。


徐升,矗立 stands upright

120*30*30cm 大理石 2017



徐升,涌现 emerge

75*40*60cm 大理石 2017



《Double peaks》と《Point to the sky》はいわば姉妹作品であろう。「尖峰」の数は異なるが、どちらも上方に向ってそびえ、途中に(下界から見たら)頂上を隠す雲の広がりがある。雲海にはところどころにすき間(下界から見たら晴れ間)がある。どちらも観客に尖った山岳と雲海を連想させるし、そう解釈してもいいけれど、肝心なのは作品の「上昇性」と雲海の「水平性」という構造である。徐升は世界や自然というものは縦と横の軸線が根幹を成していること、そこに生ずる「動き」、宇宙規模、地球規模、人間規模のさまざまな「動き」のなかにやはり水平と垂直の運動性があること、を見出す。 


《Double peaks》《Point to the sky》可以说是姊妹作品。虽然“尖峰”的数量不同,但是都是向上耸立,中间(下面往上看)有遮住顶端的云的延展。云海中到处都有空隙(下面往上看的云隙)。也可以解释为都是让观者联想到尖耸的山岳和云海。但关键在于作品的“上升性”和云海的“水平性”这样的构造。徐升发现了世界和自然是由纵横的轴线作为根干而组成,其中产生的“运动”,宇宙规模,地球规模,人类规模各种各样的“运动”里依然存在水平和垂直的运动性。


徐升,矗立 stands upright

120*30*30cm 大理石 2017


徐升,指向天空 Point to the sky

75*70*70cm 大理石 2016



《Look up》は何らかの「一つの存在」のようなものを思わせる。それは一人の人間かもしれないし、名付けられない存在一般かもしれない。その「存在」が上方を、天空を、あるいは天空のさらに彼方を、見ている。ただ眺めているのではなく、言ってみるなら「あそこまで行きたい」と望んでいる、ように見える。そういう「姿」が、抽象的でも具象的でもない表現、譬えていうなら願望がそのまま形に成ったようなものとして表現されている。 


《Look up》让人想到某一种存在。可能是一个人也可能是没有名字的某种存在。这种存在正在看着上面,天空或者天空的彼岸。不仅仅是眺望,看上去像是蕴含了“想去那里”的愿望。这样的形状既不是抽象也不是具体的表现,就像是将愿望原原本本化为形态表现出来。


徐升,望向 Look up

90*50*50cm 大理石 2016



「Stratosphere」とは、4層からなる地球の大気圏(the Earth's atmosphere)を垂直(鉛直)構造で見たときの下から2番目、対流圏(Toroposphere)の上の層を指す用語で、地表からおおよそ10~50キロメートルくらいの空を言う。ちなみにジェット機はこの「Stratosphere」のいちばん下部の辺りを航行する。この作品を「Stratosphere」そのものの表現とみなすべきでは勿論ないけれど、《Stand upright》とは違って縦の軸線を中途で切り、そこから瘤のある翼のような形のものを幾つか張り出させている。無限に空の彼方を目指す運動性を意図的に途中までで止めている表現であることは明らかだろう。縦の軸線を中途で切っているために下方への運動性が強く出ている。上方を目指すことは、いつも、下方へ戻ることと対になることなのである。 


《Stratosphere》是在共有四层的大气圈中从下往上数的第二层,在对流层以上,位于离地表10公里至50公里的高度。飞机一般在平流程最底部飞行。虽然不能将这个作品看成是 就是“Stratosphere”的表现。不过与《stand upright》不同,纵轴线在中间断开,从那里伸出一些长有瘤的像翅膀一样的物体。像这样有意的让以无限的天空彼岸为目标的运动性在中途停下来的表现就很明显了。因为纵轴线在中途断开,所以向下的运动性变强。以上方为目标是和回到下方互为对应的。


徐升,平流层 Stratosphere 

75*60*60cm 大理石 2016



5.空間の「対」関係

《Under the surface》をもう一度よく見てみると、下向きに湾曲した「表皮」の下側のものが気にかかる。この作品を置くための一種の台座と言って無視してしまえばいいのかもしれないが、そうはいかないだろう。それが「台座代わり」のものだとしても、徐升は手抜きはしない美術家だ。実はこれと次の《Under the dome》は実作品を未だ見ていないので、確信をもっては言えないのだが、台座とか脚とかいうようなものであるよりは、僕にはそれは垂直軸の基部のように見える。もしもそうだとするなら、その上に載っているかのような湾曲したものは、はっきりと地面、大地を暗示している気がする。地面を(「台座」のように見えるものによって)少しだけ持ち上げて、大地じたいを表わしているのだ。「擬人化」という言葉があるけれどそれをもじって、大地を擬「物」化したものである。そう言い得るかもしれない。湾曲はいわば地球の丸みの譬喩である。垂直軸の基部がわずかだけなのは、そして大地部分の上には何も置かないのは、空への憧れを解放し、上方にはぜんぶ大空がひろがっていることを示すためである。それと同時に、「Under」という作品題名に敬意を表するとしたら、やはり、垂直軸の基部のその下方のことも忘れるわけにはいかない。大地の深部への憧れないし怖れと、その深淵な広がりへの敬意が示されている、ということである。 


5.空间的成对关系


重新审视《Under the surface》,就会留意向下弯曲的表皮下方的物体。好像就把它当做一个放置作品的台座忽视掉了,但这是不可以的。即便只是作为台座的替代品,徐升也是一个追求极致的艺术家。虽然还没有见过此作和《Under the dome》的实物,无法确切断言,但是对于我来说比起台座或是脚,看上去更像是垂直轴的基部。如果真是这样,就觉得上面承载的弯曲物体清晰的暗示了地面和大地。将地面(看上去像是台座之物)稍稍抬升来表现大地本体。有一个词叫做拟人化,化用这个词,也可以说这算是大地的拟物化吧。弯曲是地球的圆的比喻。垂直轴的基部不多,因此在大地部分的上面不放置任何物体,显示出对天空的憧憬和在上面无限延伸的天空。同时,对《Under》这个作品名表示敬意就也不要忘记垂直轴基部下面的物体,其表达了对大地深处的憧憬和恐惧以及对蔓延的深渊的敬意。


徐升,自然之层  Under the dome

90*35*40cm 大理石 2016



《Under the dome》も、構造としてはそれと同じであることはいうまでもない。ただ、こちらは見ての通り、わずかな垂直軸の基部の上に載っているものが三層を成している。宇宙の広大さはそのままでは表現しえないとしたら、どうするか?ここで徐升が取った方法は− 天空の広大さ、あるいは複雑さを示すために三層構造にする。しかしその全体は一種のドームの形状にして、むしろ内側へ、下方への動線を生み出す。そうすることで観客の視線を垂直軸の基部のさらに下方へと誘導する。いってみるなら蒼穹を大地の深みの方へと反転する。そういう方法である。そうすることで、蒼穹と大地の深淵とが等価になる。あるいは、同じもの、同じ広がりになるのである。 


《Under the dome》的构造也是一样的。只是,仅有的垂直轴基部上承载的物体是三层。怎样才能纯粹的直接的表现宇宙的广阔无垠呢?这里徐升用三层构造来表现天空的宽广或是复杂。但整体做成半圆形屋顶的形状,衍生出到到内侧和下方的活动线。通过这样将观者的视线引到垂直轴基部的更下方。这是将苍穹反转到大地深处的方法。这样,苍穹和大地深渊就是等价的了,或者就变成相同物体,相同的空间延伸。


とすれば、《Under the dome》と《Under the surface》とは鏡に映った関係になる。鏡の場合は片方は虚像にすぎないが、ここでは両者ともに実体的に反転の関係にあるのだ。その意味ではこの2点は「対」の関係にある、独創的な作品といってよい。 


《Under the dome》和《Under the surface》就像是反映在镜子里的关系一样。不过,镜子里的只是单方面的虚像,而在这里两者都是实体的反转关系。这样,它们就是成对的关系,可以说这是具独创性的作品。


6.核の論理

《Thorn》も《All direction》も、材料こそ異なっているが、これまで説明してきた作品群と、基本的には同じテーマ、空間・自然・世界に「構造」を見て、それを表現しようというテーマを扱っている。


6.核的原理


《Thorn》《All direction》虽然材料就不相同,但是与之前介绍的作品一样主题都相同,都是以表现空间,自然,世界中的构造为主题。


徐升,刺 Thorn

135*110*110cm不锈钢 2016



《Thorn》はわかりやすい。上方と下方が尖ったものの真ん中を、水平の円、輪が通っている。この2点も実物をまだ見ていないのだけれど、僕が受け取った《Thorn》の図版には作品が床に落とす影が映っている。影も含めて作品である、ということらしい。仮にそうなら、つまり《Thorn》は実物と影で作品を成しているのなら、ここでの空間表現の構造は二重であることになる。 


《Thorn》比较好懂。水平的圆,轮穿过上下尖耸的物体中央。这两个我都没有看过实物,不过从我拿到手的《Thorn》的图片里有在地面上的影子。影子好像一起构成了作品。假设《Thorn》是由实物和影子相互相成的作品,这里空间表现的构造就是两重。


《All direction》の図版には影がない。というかたぶん影は必要ない。円形の輪が、いちばん下のものから大きさを変えながら(上方に向って小さくなりながら)9回繰り返されて、全部で10ある。この繰り返しは、実物のなかにいわば「影」に当たるものを最低9個は含んでいる、ということだからである。いちばん上の輪はいちばん下の輪の影であり、その逆も真である、というように。つまりそのようにしてこの《All direction》も、そして《Thorn》も、一つの作品内でさっき言った「反転」の構造、「対」の関係を実現しているのである。 


《All direction》的图片里没有影子,也许这里影子就没有必要。圆轮从最下端起大小不断改变(向上不断变小),这样重复九次,全部一共是十。因为这样的重复,在实物中相当于影子的就起码有9个。最上面的轮是最下面轮的影子,反过来也是如此。就像这样,《Thorn》和《All direction》都是在一个作品内实现了刚才谈到的反转的构造,成对的关系。



徐升,所有方向 All direction

140*140*160cm 不锈钢 2017



7.石という材料


徐升はこれまでもかなりの試みをおこなってきている。さまざまな試行錯誤をやってきた、と言い換えてもよい。この画廊での2015年の個展『Garden of Growth』の折に出版された図録を見るとそれがわかるが、彼が目指してきた方向は間違っていなかった。間違ってはいなかったが、未だいろいろなものの影響が残っていた感じがする。例えばミケランジェロだったり、野口勇だったり、ブランクーシ(Brancusi)だったり、ペノーネ(Penone)だったりだ。彼は積極的に世界をずいぶん旅行しているので、旅先で見たもの、感じたものも作品には取り込まれている筈である。そういう影響はべつに悪いことではない。若い時には不可避であり、あるいは不可欠かもしれない。しかし、今度発表される作品群にはそういうものがほとんど無い。自分の独自性に向って一歩大きく進んだのである。その理由は、彼にとって表現すべきものがはっきりしてきたからである。 


7.材料石头


徐升此前也进行了相当多的尝试,也可以说是经历各种各样错误的尝试才一步步走过来。这从在这个画廊2015年举办个展《徐园——徐升雕塑空间》时出版的图录就可看出来,但是他目标方向是正确的。虽然方向没有错,但是依然能感受到残留了各样的影响。例如米开朗基罗,野口勇,布兰诺西,佩诺内等。大抵是因为他大量奔走于世界各地,将旅途中所见所感带进了作品的原因吧。这种影响其实也并非坏事,在年轻时这都难免也可说是不可或缺的。但是,这次发布的作品里就完全没有了这样的影响。他朝着自己的独创性又更进了一步。因为,对他来说他更清晰应该表现的东西。


今回使っている材料のほとんどは石(花崗岩と大理石)である。そのことから説明してみよう。


这次使用的材料几乎是石头(花岗岩和大理石)。下面从材料的选择来进行说明。


徐升,流通 一/二     Circulate1/2

110*70*60cm 110*60*70cm 大理石 2017



古来、人間が彫刻に用いてきた主な材料は石、木、金属だが、石と木は自然のままのものであるのにたいして、金属は人の手による加工を経なければ彫刻の材料にはなりえない。「自然・空間・世界」そのものを表現しようとして突き詰めていくと、金属は二番手になるのが必然である。自然由来の材料はみずからのなかに「自然」を、つまり「空間・世界」を含んでいるからだ。それゆえ探求がシンプルにもなるし、究極的にもなるし、こう言ってよければ本質的にもなる。「自然・空間・世界」と同じもの、その一部であるものを使うに越したことはない。 


自古以来,人们将石头,木头,金属作为雕塑的主要材料。与石头,木头这种原始直接材料相比,金属成为雕塑的材料必须要经过加工。想更加纯粹地追求“自然 空间 世界”的表现的话,金属就并非最好选择了。原始的直接的材料其本身就包含了 “自然”,也就是说包含了“空间 世界”。因此,这种探求变得更加纯粹,深入,也可以说直达本质。没有比选择本来就和“自然 空间 世界”等同的,作为其中一部分而存在的材料更合适了。


徐升が木を使わない理由は、もちろん作品の耐久性とかいうことではない。「木」はおそらく彼にとってはあまりにも「生ま」なのだ。「生ま」とはいわば自然の「臍の緒」を残しているということである。徐升は、ある「距離」が欲しい。自然そのものないし自然由来でありながら自然との間に距離のあるものが彼の感性に合う。僕たちの周囲に広がっているのは「自然(空間)」だけれど、そこから「生ま」の度合いがほぼ消えたものを僕たちは「空間」と呼んでいる。そして「世界」とは、「自然+空間」を指し示す。と同時に「社会性」(自然と空間のなかにおける人間の活動が生むものの総体)の意味をも持つ。少し欲張りな徐升は、出来うるならばこの全部、全体を表現したいと考えている。 


当然徐升没有用木头并不是因为为了作品的耐久性。木头大概对于他来说过于“直接.原始”,就像残留的“自然的脐带”。徐升想要一些距离感。虽然来自自然,但是与自然之间保持一些距离才是符合他的感性的。尽管在我们周围伸展开来的就是“自然(空间)”,但我们将 “直接.原始”程度消失殆尽的称作“空间”。这样,“世界”指的是“自然+空间”。同时也有“社会性”(自然和空间里伴随人的活动所产生的一切)的含义。我认为颇具野心的徐升想表现这所有的一切和全体。


8.石は大地でもある


これはよく知られていることだが、ルネサンスのミケランジェロは石切り場から運ばれてきた石材と対峙しているとそこに彫り出すべき形が見えたという。その「形」の方から彼にこれ、この形を彫ってくれと語りかけたという。しかし今、彫刻はすでに「形」を彫り出すことではない。僕は、以前の徐升の作品にミケランジェロのこの方法、この彫刻思想を解体し、反転させようという方向性、あるいは意図(のようなもの)を感じていた。徐升自身がそれを自覚していたかどうかはわからない。 


8.石头也是大地


众所周知,文艺复兴的米开朗基罗说过,塑像本来就在石头里,他只是把不要的部分去掉。但是现今的雕塑不再是将“造型”雕塑出来。我感觉徐升以前的作品中有解体米开朗基罗的雕塑方法和雕塑思想,将其反转的意图。不知道徐升自己是否觉察到这一点。


今度の作品を見ると、僕のその理解が間違っていなかったことがわかる。ミケランジェロが石の中に「形」を見ようとしたのにたいして、徐升はいわば空間の中の石を見ている。石を、それがもともと在った場所と広がりとともに見ている。見ようとしている。それを例えばダヴィデとかピエタの形にしてしまうことは、それゆえ徐升にとっては石を忘れてしまうこと、すなわち石の本来の自然性から離れてしまうことを意味している。石はそれじたいが一つの空間を成していて、かつ自然空間の中にある。石はそのようにして大地の一部であり、それによって空間と対峙している。大地を背負いながら空に向っている。このことを、徐升は身体のどこかで感じ取ってきたのだと思う。 


看到这次的作品我发现我的这个理解是错误的。与米开朗基罗在石头里发现“造型”不同,徐升可以说是看空间里的石头。他同时看到石头和石头原本所在的地方。例如,做成大卫像或哀悼基督,对于徐升来说就意味着忘记了石头,从石头本来的自然性中抽离。石头本身自成一个空间,且处于自然空间之中 。如此石头作为大地的一部分与空间相对而立,背负大地的面朝天空。我认为这是徐升身体某处所感而得。


ミケランジェロが「形」を彫り出そうとしたとするなら、徐升は石のその在り方を、つまりはいわば空間そのものを、彫り出そうとしているのである。彼はまず石から、例えば石から始める。


如果米开朗基罗是将形状雕塑出来的话,徐升则是将石头存在的方式,空间本体雕塑出来。他首先从石头起始。


徐升,盘绕  coil

60*45*50cm 大理石 2016



9.精神と心の事柄


空間そのものを彫り出そう、表現しようとして石を見るとき、徐升はおのずと大地、地中、空、空の彼方を意識する。「空間」は無限の広がりのことだからである。さらに、「地中」とは現実の地球内部のことにとどまらず、人間の精神ないし心の広がりと繋がっている。それは現実的に無限かもしれない「空の彼方」も同じで、「彼方」とは精神ないし心の領域のことにほかならない。「空の彼方」は徐升自身の言葉だと「cosmos」になるだろう。彼の今度の新作が魅力的である理由は、「空間表現」をたんなる造形のレヴェルから一歩引き上げているところにある。この「一歩」の引き上げこそ、今、彫刻の試みが真正であるかそうでないかの分れ目になる。人類は「彫刻」の試みをほぼやりつくしてきて、最終課題として「空間それじたい」へと向いつつある。 


9.精神和心性


想将空间本体雕塑并表现出来,徐升在看到石头的时候,就自己意识到大地,地下,天空,天空彼岸。因为空间是无限延伸的。地下不仅仅是现实的地球内部,也指人的精神甚至心性。与现实中无限的天空的彼岸一样,彼岸也指精神乃至内心领域。用徐升自己的语言来说彼岸就是“cosmos”。他这次新作特具魅力在于,对于“空间表现”从仅仅造型叛逆上又前进了一步。这一步正是判断现今雕塑是否在做真正的尝试的分界岭。人类一直在迷茫的进行着各种各样雕塑的尝试,一直朝着最终课题“空间本体”。


徐升が庭園、建築に関心をもっているのも、彼の関心事の核が「空間それじたい」にあるからだ。もちろん庭園や建築は彫刻とは異なる。「空間」を中心に考えるなら、庭園は空間をアレンジすることであり、建築は空間を仕切る技術のヴァリエーションであり、どちらも根底にあるのは「利用」というコンセプトなのだ。しかし近代彫刻以降の現在において芸術としての彫刻たりうるには、彫刻は「空間それじたい」を捉えることでなければならないように思う。すくなくとも、この「最終課題」を通ることなくその先へ行くことはできないのである。 


徐升也对庭院和建筑感兴趣,也是因为他关注的核心是空间本体。当然,庭院和建筑和雕塑并不相同。把空间作为出发点来考虑的话,庭院是对空间的整理,是将空间分割的技术,不管怎么说,在根本上都是“利用”这个概念。但是,我认为要成为在近代雕塑之后现在的艺术品,雕塑必须捕捉到“空间本体”。至少,如果不踏入这个最终课题,是无法再向前迈一步。


少しややこしい言い方にきこえるかもしれないが、言ってみる。作品が「空間それじたい」を表現するための「代替物」になってしまっては、元の木阿弥だ。それだと、現実の美女の代わりに大理石で美女の姿を彫るのと変りはない。そうではなくて、作品そのものが「空間それじたい」に成らなければいけないのである。簡単なことではない。いま芸術において簡単なことなどない。簡単なのは過去の踏襲、既にあるものの繰り返しであり、それはすでに芸術ではないのである。しかも課題は二重で、その実現が「造形」のレヴェルにとどまっていたのでは、やはり新しい創造ではないからである。造形の彼方へまで行かなければならない。「空間それじたい」を精神ないし心の事柄と化しえたときに初めて、ほんとうの意味で新しい「彫刻」がスタートする。 


听起来可能有点复杂,但还是试着说一下。作品如果成为表现空间本体的替代品的话,可以说是前功尽弃的。这样和用大理石雕塑出美女的样子来代替现实中的女人体相比毫无区别。并不是这样,作品本身就必须成为空间本体。这并不简单,其实现今艺术领域里也没有简单之事。对过去的踏袭,对原有的不断重复已不是艺术。而且,这里课题是两重,仅靠停留于对造型的推翻上,依然不算是新的创造。必须走到造型的彼岸。只有空间本体变成精神乃至心性的时候,才是真正意义上新的雕塑的开始。


さらに厄介なのは、これは矛盾していることを同時に成し遂げなければならないことを意味している、というところにある。造形によって、造形を超えて、造形ならざる「空間それじたい」にまで到達しなければならない。かつ、「空間それじたい」に変成しながら(形や観念ではない)「造形」でなければならない。徐升の新しい作品はそういう方向へと一歩進みだしている。 


更为困难的是这意味着这对矛盾必须同时成立。来自造型,超越造型,到达非造型的空间本体。而且,成为空间本体的同时(非形和观念)必须是造型。徐升的新作朝这个方向迈出一步。


このような「矛盾の論理」は、西洋人には不可能事かもしれないけれど、僕たち東洋人には馴染み深いものであることを想い起そう。それに、美術とはいつでも感覚で出来ているものだが、「感覚」は矛盾など意に介さないのである。■ 


这样的矛盾理论对于西方人来说可能是不可能的,但对于我们东方人来说算是浸染已久。艺术总是由感而来,而感觉是无所谓矛盾的。(全文完)



作者简介


作者:(日本)千叶成夫  译者/ 范钟鸣


千叶成夫,1946年生于日本岩手县,成长在东京。早稻田大学文学系美术史学专业博士后课程毕业。1972—1974年,在法国巴黎大学附属美术考古研究所学习(巴黎大学博士)。2000年至今,任东京国立现代美术馆主任研究员、日本中部大学教授。主要著作:《当代美术逸脱史》(晶文社,1986年)、《美术的现在地点》(五柳书院,1990年)、《奇迹之器德尔福特的维米尔》(五柳书院,1994年)、个人美术批评杂志《徘徊巷》(2002年创刊发行)。


《日本美术尚未生成》是日本著名美术批评家千叶成夫几十年来研究日本近现代美术的思想结晶,比较完整地展现了他对日本美术的独到见解。此书以艺术评论为核心,用历史的眼光对日本近现代美术进行了历史性的考察,试图通过对远藤利克、户谷成雄、堀浩哉、中村一美、草间弥生、田中敦子、川俣正等日本著名现代艺术家的深入评述,揭示日本现代美术的实质,并寻求在感觉、思想和理论上有别于西方的日本美术发展道路与方向。


《日本美术尚未生成》以艺术评论为核心,用历史的眼光对日本近现代美术进行了历史性的考察,试图通过对远藤利克、户谷成雄、堀浩哉、中村一美、草间弥生、田中敦子、川俣正等日本著名现代艺术家的深入评述,揭示日本现代美术的实质,并寻求在感觉、思想和理论上有别于西方的日本美术发展道路与方向。



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