日语美文朗读:失敗は成功のもと・松浦弥太郎

文摘   教育   2024-11-17 21:36   湖南  


中村Radio・第201回 

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朗読者:中村紀子

作品:『おいしいおにぎりが作れるならば。』松浦弥太郎 

BGM:Saiakoup - Crilwa



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『失敗は成功のもと』

松浦弥太郎


 失敗という言葉は嫌いではない。

 失敗を好む人などいないと思うが、失敗という文字を前にして、嫌いかといえばそうではなく、ならば好きかといえば首を縦にも横にも動かせない。ただじっとその文字をみつめようとする自分がいる。嫌いでなければ、その心境はなにかといえば、失敗という結果を、ここはひとつ大きな深呼吸でもして、いとおしみたいというのが本当かもしれない。

 失敗は成功のもと。幼い頃、大人の誰かに、いつまでもくよくよするな、という意味で言われた覚えがある。しかし、そのとき僕はそんな風に素直に捉えられず、失敗がなぜ、成功のもとになるのだろうかと真剣に考えた。失敗が成功のもとならば、その失敗と成功の関係は何かと思いをめぐらせた。



 重要なのは、失敗と間違いの違いである。失敗は、しそこなうこと、やりそこなうこと。間違いは、しくじる、過失とある。あくまでも僕の解釈であるが、失敗とは無意識のものであり、悪意はなく、ある意味、防ぎようがないこと。間違いは、意識的なものであり、悪意はなくとも防ぐことは可能であったこと。であるから、失敗とは起きること、間違いとは犯すこと、と分けて考えていいだろう。失敗には、希望や将来が感じられるけれども、間違いには、自分自身を省みる意識を強く要するように感じる。起きてしまいました、と、犯してしまいましたの違いはとても大きい。失敗の根には計り知れない前向きなチャレンジがあるが、間違いの根にはどうも前向きなものは見つからない。要するに、失敗には、ひとつも罪らしきものはない。とはいえ、間違いを犯すことは、人間である証でもあるから嫌悪はしたくない。

 日々の暮らしのなかで起こり得る、自分自身の行動のひとつの結果を、失敗と捉えるか、間違いと捉えるかで、その次のステップの踏み方は違うはずであり、先に見えてくる景色も大きく違ってくる。大失敗であれば、ステップの踏み方によっては、その先に大成功が控えているだろうし、大間違いであれば、自分のなかの何かしらの大きな欠点、もしくは自己中心的なもの、怠惰的なもの、欲望的なものといった内面的な要素が起因であるから、自身を見つめ直すチャンスとなる。

 失敗とは、それで起きる一時的なリスクはあるだろうけれど、決して無駄なことでなく、かえって喜ばしいことと考えたい。そう、失敗とはチャンス。失敗こそが物事のスタートであるとはっきりと言い切りたい。しかし、おおよその人は、失敗の本質を見極めようとしないから、失敗した段階で、あきらめるか、止めるか、否定するかで中絶させてしまう。せっかく物事を動かしたのに、ひとつやふたつの結果だけで止めてしまうという、これこそ、もったいないこと、をしている場合が多い。いかにして、日々の失敗を拾って、生かしていくかによって、私たちの暮らしと仕事、人生は培われていくのだ。

 であるのにかかわらず、失敗を目にして、まずは他人事のように馬鹿にして、文句をつけ、損をした、ああだこうだと、分かったつもりのことを言う人のなんと多いことよ。そういう人は、えらいからひとつも失敗はしない。しかも、失敗をしないから賢いと勘違いしているから手に負えない。失敗をしない大人ほど、役立たずはいないとさえ僕は言いたい。失敗をしないということは、何一つチャレンジをしていないということに気がつかなくてはいけない。そんな人の行動は、すべて他を真似したことか、古い習慣、保守的で硬い頭脳によるもの、もしくは同じことの繰り返しである。そりゃあ、失敗しません。しかし、いってみれば、そのくらい暮らしや仕事や人生に、怠惰な精神はありません。失敗をしないということは、何もしていないことと同じである。失敗をしないということは人間的でもないということでもある。

 失敗とは、勇気の現れであり、チャレンジをした証である。よって、じゃんじゃん失敗して、たくさんのことを学び、じゃんじゃん成功をしていけばいいのだ。僕の知るところ、何かしらで成功という結果を出している人ほど、話を聞くと、その失敗の数は尋常ではなくて驚かされる。ある人はこう言った。一の成功には、百の失敗が隠れている、と。ここにこそ、失敗は成功のもと、という言葉の原理がしっかりと見られる。ある結果が出たとき、それを失敗であったと捉えるか、間違いであったと捉えるか、それを見極めることがいかに重要かを知っておきたい。

 どんな困難に出合っても、失敗を恐れるような臆病者になってはいけない。どんなことでもやってこい、全部受け取ってやるという気持ちで、事をさばいていけば、困難であれば困難であるほど、面白いくらいに面白さが生まれるものである。そして、いつしか物事はきれいに解決してしまうものである。難しかろうが、簡単だろうが、そんな事は考えずに、やろうと思った事はあきらめずに実行するのみである。どうしようか、こうしようかと思案ばかりしていたら、ひとつも前には進まない。腹をくくれば、大抵のことは動くという言葉はほんとうだ。そういった気持ちが強ければ、障害であった相手や物事も、あきれて味方になってしまうものである。



 実を言うと僕は、二十代半ばから現在に至って、失敗ノートというものをつけている。それは今や十三冊にもなっている。成功したことを忘れてしまっても、失敗したことだけは忘れたくないと思って、長年飽きずにつけ続けている。その失敗ノートだが、時が経ってからよく見てみると、その時は失敗と思ったことでも、間違いであったと改めなくてはいけない発見が多々あるから愉快になる。失敗ノートには、一見、失敗に見える間違いが、たくさん混ざっているということだ。それがわかったときは、赤面どころか、冷や水を浴びせられたような気持ちになって青くなる。しかし、ちょっとうれしい気にもなる。要するに、人間とは、失敗もするし、間違いも犯すということである。それを見極めて、次に何をするべきなのか、何を考えるべきなのか、何を正すべきなのかを、知ることが大切なのだ。たくさんの失敗の中からたくさんの間違いを探すには、心に素直さがなくてはならない。人はいつでも自分を正当化したいからである。しかし、冷静になって自分を見つめるには、なによりも正直な気持ちがなくてはならない。失敗の中から間違いを探すことにすら、失敗と間違いがあるということも忘れてはいけない。そして、人とは、美しいものと、美しくないものが同居していてこそ本当であるから、失敗を美しいとするならは、間違いという美しくないものも、自分のなかには当然あって然りである。

 そういういろいろを受け入れて、調和させることができれば、暮らしも仕事も人生も、美しく、しあわせでなかろうか。失敗には失敗の真実があり、間違いには間違いの真実がある。それを日々の糧にして生きていきたい。

 失敗こそが、成功のいちプロセスであることは、暮らしにまつわるすべてにいえることである。これからも僕は、失敗と間違いを繰り返すだろうし、失敗を支える勇気とチャレンジ精神、間違いを正す素直な気持ちを失いたくないと心している。そして、もっと言えば、「暮らしの手帖」を舞台にした失敗をじゃんじゃんして、成功をじゃんじゃんと生み、その両方を私たちから読者への手紙のようにしたためて雑誌を作っていきたい。



 失敗とは、なんてすばらしいのだろう。僕は自分の名前を、松浦失敗、と変えたいくらいにそう思う。





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