日语美文朗读:村上春樹--色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(1)

文摘   文化   2024-10-08 20:38   日本  


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【第83回】

色彩を持たない多崎つくると、

彼の巡礼の年

(1)



村上春樹

 大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。その間に二十歳の誕生日を迎えたが、その刻み目はとくに何の意味も持たなかった。それらの日々、自らの命を絶つことは彼にとって、何より自然で筋の通ったことに思えた。なぜそこで最後の一歩を踏み出さなかったのか、理由は今でもよくわからない。そのときなら生死を隔てる敷居をまたぐのは、生卵をひとつ呑むより簡単なことだったのに。
 つくるが実際に自殺を試みなかったのはあるいは、死への想いがあまりにも純粋で強烈すぎて、それに見合う死の手段が、具体的な像を心中に結べなかったからかもしれない。具体性はそこではむしろ副次的な問題だった。もしそのとき手の届くところに死につながる扉があったなら、彼は迷わず押し開けていたはずだ。深く考えるまでもなく、いわば日常の続きとして。しかし幸か不幸か、そのような扉を手近な場所に見つけることが彼にはできなかった。
 あのとき死んでおけばよかったのかもしれない、と多崎つくるはよく考える。そうすれば今ここにある世界は存在しなかったのだ。それは魅惑的なことに思える。ここにある世界が存在せず、ここでリアリティーと見なされているものがリアルではなくなってしまうこと。この世界にとって自分がもはや存在しないのと同じ理由によって、自分にとってこの世界もまた存在しないこと。
 しかし同時に、なぜ自分がその時期、それほどぎりぎりのところまで死に近づかなくてはならなかったのか、その理由もつくるには本当には理解できていない。具体的なきっかけはあったにせよ、死への憧憬がなぜそこまで強力な力を持ち、自分を半年近く包み込めたのだろう?包み込むーーそう、まさに的確な表現だ。巨大な鯨に呑まれ、その腹の中で生き延びた聖書中の人物のように、つくるは死の胃袋に落ち、暗く淀んだ空洞の中で日付を持たぬ日々を送ったのだ。
 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった。
 死について考えないときは、まったく何についても考えなかった。何についても考えないことは、さしてむずかしいことではなかった。新聞も読まず、音楽も聴かず、性欲さえ感じなかった。世間で起こっていることは、彼にとって何の意味も持たなかった。部屋に閉じこもっているのに疲れると、外に出てあてもなく近所を散歩した。あるいは駅に行ってベンチに座り、電車の発着をいつまでも眺めた。
 毎朝シャワーを浴び、丁寧に髪を洗い、週に二度洗濯をした。清潔さも彼がしがみついている柱のひとつだった。洗濯と入浴と歯磨き。食べることにはほとんど注意を払わなかった。昼食は大学の食堂で食べたが、あとはまともな食事はほとんど取らなかった。空腹を感じると、近所のスーパーマーケットで林檎や野菜を買ってきて囓った。あるいは食パンをそのまま食べ、牛乳を紙バッグから飲んだ。眠るべき時間が来ると、ウィスキーをまるで薬のように、小さなグラスに一杯だけ飲んだ。ありがたいことにアルコールに強くなかったせいで、少量のウィスキーが彼を簡単に眠りの世界に運んでくれた。当時の彼は夢ひとつ見なかった。もし見たとしても、それらは浮かぶ端から、手がかりのないつるりとした意識の斜面を虚無の領域に向けて滑り落ちていった。

 多崎つくるがそれほど強く死に引き寄せられるようになったきっかけははっきりしている。彼はそれまで長く親密に交際していた四人の友人たちからある日、我々はみんなもうお前とは顔を合わせたくないし、口をききたくもないと告げられた。きっぱりと、妥協の余地もなく唐突に。そしてそのような厳しい通告を受けなくてはならない理由は、何ひとつ説明してもらえなかった。彼もあえて尋ねなかった。
 四人とは高校時代の親友だったが、つくるはすでに故郷を離れ、東京の大学で学んでいた。だからグループから追放されたところで日常的な不都合があるわけではない。道で彼らと顔を合わせて気まずい思いをすることもない。しかしそれはあくまで理屈の上でのことだ。その四人から遠く離れていることで、つくるの感じる痛みは逆に誇張され、より切迫したものになった。疎外と孤独は何百キロという長さのケーブルとなり、巨大なウィンチがそれをきりきりと絞り上げた。そしてその張り詰めた線を通して、判読困難なメッセージが昼夜の別なく送り届けられてきた。その音は樹間を吹き抜ける疾風のように、強度を変えながら切れ切れに彼の耳を刺した。

 五人は名古屋市の郊外にある公立高校で同じクラスに属していた。男が三人、女が二人。一年生の夏に、ボランティア活動がきっかけで友だちになり、学年が変わりクラスが分かれても、変わらず親密なグループであり続けた。その活動は学校から与えられた夏休みの社会科の課題だったが、所定な期間が終わっても、グループは自分たちの意思で自発的に活動を継続した。
 奉仕活動の他にも、休日にみんなでハイキングに行ったり、テニスをしたり、知多半島まで泳ぎに行ったり、誰かの家に集まって一緒に試験勉強をしたりした。あるいは(そういうことがいちばん多かったのだが)とくに場所を選ばず、みんなで額を寄せ合うようにしていつまでも話し込んだ。決まったテーマを設けて話すわけではないが、話題が尽きることはなかった。
 五人が出会ったのは偶然の成り行きだった。課題のボランティア活動にはいくつか選択肢があり、学校の通常の授業についていけない小学生(多くは不登校児童だ)を集めたアフタースクールの手伝いをするというのも、そのひとつだった。カソリック教会が立ち上げたスクールで、三十五人いるクラスの中でそのプログラムを選んだのは彼ら五人だけだった。五人は名古屋市近郊で開かれたサマー・キャンプに三日間参加し、子どもたちとすっかり仲良くなった。
 キャンプの作業の合間に、彼らは暇をみつけて率直に語り合い、お互いの考えや人となりを理解し合った。希望を語り、抱えている問題を打ち明けた。そして夏のキャンプが終わったとき、五人はそれぞれに「自分は今、正しい場所にいて、正しい仲間と結びついている」と感じた。自分は他の四人を必要とし、同時に他の四人に必要とされているーーそういう調和の感覚があった。それはたまたまもたらされた幸運な化学的融合に似ていた。同じ材料を揃え、どれだけ周到に準備をしても、二度と同じ結果が生まれることはおそらくあるまい。
 その後も彼らは週末に、月におおよそ二度のペースでそのアフタースクールに行って、子供たちに勉強を教えたり、本を読んでやったり、一緒に運動をして遊んだりした。また庭の草刈りや、建物のペンキ塗りや、遊具の補修をしたりもした。そういう活動が高校を卒業するまで二年半ほど続けられた。
 ただ男が三人、女が二人という構成は、最初からいくらか緊張の要素を含んでいたかもしれない。たとえばもし男女二人ずつがカップルを作れば、一人がはみ出してしまうことになる。そういう可能性は常に彼らの頭上に小さな堅い傘雲としてかかっていたはずだ。でも実際にはそんなことは起こらなかったし、起こりそうな気配すら見えなかった。

 偶然というべきか、五人はみんな大都市郊外「中の上」クラスの家庭の子供たちだった。両親はいわゆる団塊の世代で、父親は専門職に就いているか、あるいは一流企業に勤めていた。子供の教育には出費を惜しまない。家庭も少なくとも表面的には平穏で、離婚した両親はいなかったし、母親はおおむね家にいた。学校はいわゆる受験校だったから、成績のレベルも総じて高い。生活環境についていえば、彼ら五人の間には相違点よりは共通点の方がずっと多かった。
 また、多崎つくる一人を別にして、他の四人はささやかな偶然の共通点を持っていた。名前に色が含まれていたことだ。二人の男子の姓は赤松と青海で、二人の女子の姓は白根と黒埜だった。多崎だけが色とは無縁だ。そのことでつくるは最初から微妙な疎外感を感じることになった。もちろん名前に色がついているかいないかなんて、人格とは何の関係もない問題だ。それはよくわかる。しかし彼はそのことを残念に思ったし、自分でも驚いたことに、少なからず傷つきさえした。他のみんなは当然のことのようにすぐ、お互いを色で呼び合うようになった。「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」というように。彼はただそのまま「つくる」と呼ばれた。もし自分が色のついた姓を持っていたらどんなによかっただろうと、つくるは何度も真剣に思ったものだ。そうすればすべては完璧だったのに。
 アカは成績が図抜けて優秀だった。とくに身を入れて勉強をしているようにも見えないが、すべての科目でトップクラスだった。でもそれを鼻に掛けるでもなく、一歩後ろに引いて周囲に気を配るところがあった。まるで自分の頭脳が優秀であることを恥じるみたいに。ただ小柄な人によく見られるように(身長は最後まで百六十センチを超えなかった)、いったんこうと決めたら、たとえそれが些細なことであっても簡単には譲らない傾向があった。理屈の通らない規則や、能力に問題のある教師に対して真剣に腹を立てることもよくあった。生来の負けず嫌いで、テニスの試合で負けると不機嫌になった。負けっぷりが悪いというのでもないのだが、明らかに口数が少なくなった。他の四人はそのような彼の短気をおかしがって、よくからかったものだ。そして最後にはアカ自身も笑い出した。父親は名古屋大学経済学部の教授だった。
 アオはラグビー部のフォワードで、体格は申し分なかった。三年生のときにはチームのキャプテンをつとめた。肩幅があって胸がぶ厚く、額が広く、口が大きく、鼻がどっしりとしていた。ハッスル・プレーヤーで、生傷が絶え間なかった。地道な勉学にはあまり向かないが、性格が明るく、多くの人に好かれた。まっすぐ人の目を見て、よくとおる声で話をした。驚くほどの大食漢で、なんでも実にうまそうに食べた。悪口は滅多に口にせず、人の名前と顔をすぐに覚えた。よく人の話を聞き、場をまとめるのが得意だった。つくるは彼がラグビーの試合前に円陣を組んで、仲間の選手たちに檄を飛ばしていた光景を今でもよく覚えている。
 彼は叫んだ。「いいか、これからおれたちは勝つ。おれたちにとっての問題はどのようにして勝つか、どれくらい勝つかだ。負けるという選択肢はおれたちにない。いいか、負けるという選択肢は、おれたちにはない!」
「おれたちにはない!」と選手たちは大声で叫び、フィールドに散っていった。
 しかし彼らの高校のラグビー・チームはとくに強いわけではなかった。アオ自身は運動能力に恵まれた、クレバーな選手だったが、チーム全体のレベルはまずまずというところだった。奨学金を出して全国から優秀な選手を集めてくる私立高校の強豪チームには、しばしばあっけなく敗北を喫した。しかし試合がいったん終わってしまえば、アオは勝敗のことはそれほど気にしなかった。「大事なのは勝とうという意志そのものなんだ」と彼はよく言ったものだ。「実際の人生で、おれたちはずっと勝ち続けることなんてできない。勝つこともあれば、負けることもある」
「そして雨天順延もある」と皮肉屋のクロが言った。
 アオは哀しそうに首を振った。「君はラグビーを野球やテニスと混同している。ラグビーには雨天順延はない」
「雨が降っても試合をするの?」とシロは驚いたように言った。彼女はすべてのスポーツに対して興味と知識をほとんど持ち合わせなかった。
「本当だよ」とアカがもっともらしく口を挟んだ。「ラグビーの試合はどんなに雨が降っても中止にならない。だから毎年多くの選手が競技中に溺れて死ぬ」
「なんてひどい!」とシロが言った。
「馬鹿ね、もう。そんなの冗談に決まってるでしょうが」とクロがあきれたように言った。
「話が逸れてしまったけど」とアオが言った。「おれが言いたいのは、上手な負けっぷりも運動能力のひとつだということだよ」
「そして君は日々その練習に励んでいる」とクロが言った。
シロは古い日本人形を思わせる端正な顔立ちで、長身でほっそりして、モデルのような体型だった。髪は長く美しく、艶のある漆黒だ。通りですれ違った多くの人が、思わず振り返って彼女を見た。しかし彼女自身にはどことなく自分の美しさを持て余しているような印象があった。生真面目な性格で、何によらず人の注目を引くことが苦手だった。美しく巧みにピアノを弾いたが、知らない人がいる前でその腕を披露することはまずなかった。ただアフタースクールで子供たちに辛抱強くピアノを教えているとき、彼女はことのほか幸福そうに見えた。それほど明るくのびやかな顔をしたシロを、つくるは他の場所で目にしたことがなかった。何人かの子供たちは、通常の勉強には向いていないかもしれないけど、自然な音楽の才能を持っているし、このまま埋もれさせてしまうのは惜しい、と彼女は言った。しかしそのスクールには骨董品に近いアップライトピアノしかなかった。だから五人は新品のピアノを手に入れるために、熱心に募金活動をした。夏休みには全員でアルバイトをした。楽器会社にも足を運んで協力を仰いだ。そして長い努力の末にようやくグランドピアノを入手することができた。高校三年生の春のことだ。彼らのそのような地道な奉仕活動は注目され、新聞にも取り上げられた。
 シロは普段は無口だが、生き物が好きで、犬や猫の話になると顔つきががらりと変わり、夢中になって話し込んだ。獣医になるのが夢だと本人は言ったが、彼女は鋭いメスを手にラブラドルの腹を切り裂いたり、馬の肛門に手を突っ込んだりしている情景が、つくるにはどうしても想像できなかった。専門の学校に行けば、当然そういう実習は必要になる。父親は名古屋市内で産婦人科医院を経営していた。
 クロは容貌についていえば、十人並みよりはいくらか上というところだ。でも表情が生き生きとして、愛嬌があった。大柄で全体にふっくらとして、十六歳のときから既にしっかり胸が大きかった。自立心が強く、性格はタフで、早口で、頭の回転も同じくらい速かった。文系の科目の成績は優秀だったが、数学や物理はひどいものだった。父親は名古屋市内に税理事務所をかまえていたが、その手伝いはとてもできそうにない。つくるはよく彼女の数学の宿題を手伝ってやったものだ。クロはきつい皮肉をよく口にしたが、独特のさっぱりしたユーモアの感覚があり、彼女と話すのは楽しく刺激的だった。熱心な読書家でもあり、常に本を手にしていた。
 シロとクロの二人は中学校の時にもクラスが同じで、五人がグループを形成する前から、お互いをよく知っていた。彼女たち二人が並んでいるところは、なかなか素敵な眺めだった。芸術的才能を具えた、しかし内気なとびっきりの美人と、聡明で皮肉屋のコメディアン。ユニークな、そして魅力的な組み合わせだ。
 そう考えてみればグループの中で、多崎つくるだけがこれという特徴なり個性を持ち合わせない人間だった。成績も中の上というところだ。勉強をすることにさして興味は持ってない、ただ授業中は常に注意深く耳を澄ませ、最低限の予習と復習は欠かさなかった。小さいときからなぜかそういう習慣が身についていた。食事の前に必ず手を洗い、食事のあとで必ず歯を磨くのと同じように。だからまわりから注目されるような成績を取ったことはないものの、どの科目も及第点は楽にクリアしていた。両親も、とくに問題がない限り、学校の成績についてうるさく言う人間ではなかったし、無理に塾に通わせたり、家庭教師をつけたりするようなこともしなかった。
 運動は嫌いではないが、運動部に入って積極的に運動したりはせず、家族や友人たちとときどきテニスをし、ときどきスキーに行き、ときどきプールで泳ぐ。その程度だ。顔立ちは整っていたし、人からも時折れそう言われたが、それは要するに「とりたてて破綻がない」というだけのことだ。彼自身、鏡で自分の顔を眺めていて、そこに救いがたい退屈さを感じることがしばしばあった。芸術方面に深い関心があるわけでもなく、これという趣味や特技もない。どちらかといえば口が重く、よく顔が赤くなり、社交が苦手で、初対面の人と一緒にいると落ちつかなかった。
 あえて言うなら彼の特徴は、五人の中で家がおそらくいちばん裕福であることと、母方の叔母がベテランの女優として、地味ではあるけれど名前をまずまず広く世間に知られていることくらいだった。しかしつくる個人についていえば、人に誇れるような、あるいはこれと示せるような特質はとくに具わっていない。少なくとも彼自身はそのように感じていた。すべてにおいて中庸なのだ。あるいは色彩が希薄なのだ。
 ただひとつ趣味といえばいいのだろうか、多崎つくるが何より好きなのは鉄道駅を眺めることだった。なぜかはわからないが、物心ついてから今に至るまで、彼は一貫して鉄道駅に魅了されてきた。新幹線の巨大な駅であれ、田舎の小さな単線駅であれ、実用一筋の貨物集積駅であれ、それが鉄道駅でありさえすればよかった。駅に関連するすべての事物が彼の心を強く惹きつけた。
 小さい頃はみんなと同じように鉄道模型に夢中になったが、彼が実際に興味を惹かれたのは、精巧に造られた機関車や車両ではなく、複雑に交差しながら伸びる線路でもなく、趣向を凝らしたジオラマでもなく、そこに添え物のように置かれた普通の駅の模型だった。そのような駅を電車が通過し、あるいは徐々に速度を落としてプラットフォームにぴたりと停止するのを見るのが好きだった。行き来する乗客たちの姿を想像し、構内放送や発車ベルの音を聞き取り、駅員たちのきびきびとした動作を思い浮かべた。現実と空想が頭の中で入り混じり、興奮のあまり体が震え出すことさえあった。しかしなぜ自分が鉄道駅にそれほど心を引きつけられるのか、まわりの人々に筋道立てて説明することはできなかった。それにもし仮に説明できたとしても、変わった子供だと思われるのがおちだろう。そしてつくる自身、自分にはひょっとして何かまともではない部分があるのかもしれないと考えることもあった。
 目立った個性や特質を持ち合わせないにもかかわらず、そして常に中庸を志向する傾向があるにもかかわらず、周囲の人々とは少し違う、あまり普通とは言えない部分が自分にはある(らしい)。そのような矛盾を含んだ自己認識は、少年時代から三十六歳の現在に至るまで、人生のあちこちで彼に戸惑いと混乱をもたらすことになった。あるときには微妙に、あるときにはそれなりに深く強く。



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