【中村Radio・第150回】
ラブレター(1)
藤井樹が死んで二年が過ぎた。
そして三月三日の三回忌。雛祭のその日、神戸には珍しく雪が降った。高台にある共同墓地も雪の中に埋もれ、喪服の黒にまだらな白がまとわりついた。
博子は空を見上げた。色のない空からとめどなく降る白い雪は素直に美しかった。雪山で死んだ彼が最後に見た空もきっとこんな風だったのだろうか。
「あの子が降らせてるみたいね」
そう言ったのは樹の母の安代だった。本来なら博子の母になっている人だった。
焼香の順番が回ってきた。
墓前で手を合わせ、改めて彼と向き合った博子は妙に穏やかな気持ちでいる自分に我ながら驚いた。歳月というのはこういうことなのか。そう思うと博子はちょっと複雑な心境だった。
(薄情な女でごめんね)
博子の立てた線香は束の間薄い煙をくゆらせていたが、一粒の雪が先端に触れてその火を消した。それが彼の悪戯のように博子には見えた。
胸がつまった。
焼香が済むまでの間、雛祭にちなんで熱い甘酒が振舞われた。参列者たちも急に賑やかになり、湯呑で暖を取りながらそれぞれつまらない世間話に花を咲かせ始めた。そのほとんどが樹の親族である。そして樹について充分な記憶を持ち合わせていない連中でもあった。彼の墓を前にしていながら彼の話題は皆無に近かった。無口でどちらかと言えば取っ付きにくい彼の人となりを思えば無理も無い事なのだろう。彼らにすればその程度しか話題のない故人であった。
「わしは甘いのがだめなんや。辛いのはないんか?辛口の酒!」
「わしもそっちがええな」
男連中のわがままなリクエストに樹の父の精一が応え、安代を呼びつけた。
「安代!おまえアレ持って来いや。菊正なんかあったやろ」
「今?どうせ後で好きなだけ飲めるじゃない」
「いいから、いいから。供養、供養!」
不機嫌そうな顔をして安代は菊正を取りに走った。
こうして雪の中で早々と宴会が始まると、菊正一本では足りなくなり、次々に運ばれてくる一升瓶が雪の上に並んだ。
「博子さん……」
不意に声をかけてきたのは樹の山の後輩たちであった。さっきから隅の方で気まずそうに固まっていたのは博子も気づいていた。しかし樹の本来の仲間、彼と一緒に山に登り、彼を置き去りにして下山した肝心のパーティーのメンバーたちの姿は見えなかった。
「先輩たち、今日は自宅謹慎ですわ」
「みんないまだに罪の意識ですよ。秋葉さんなんかあれから一回も山に登っとらんもん」
秋葉というのは樹の一番の親友である。そしてあの最後の登山のリーダーでもあった。崖下に落ちた樹を見捨てる決断をしたのも彼だった。葬儀の日、秋葉とパーティーの仲間は樹の親族から参列を拒否された。 あの時は誰もが感情的になっていた。
「山の掟なんぞ山の上でしか通用せんのや!」
親族の一人が、秋葉たちをそう罵ったのを博子は今でも忘れない。言った当人は果たして憶えているのだろうか。今そこで酒を食らって馬鹿騒ぎしている連中の中にいるはずだった。
「みんな来てくれればよかったのに」
「いやぁ……」
後輩たちは言葉を濁して顔を見合わせた。そして一人がこっそり教えてくれた。
「ホント言うとね、先輩たち今夜こっそり墓参りに来る計画みたいですよ」
法要が終わると、次は料亭の宴会が待っていた。そうなると雪の下に甘んじる忍耐力も一気に失せ、みんな急に寒がりながら足早に駐車場へ駆け降りて行った。博子も誘われたが辞退した。
車にエンジンをかけたところに精一がやってきて窓をたたいた。
「博子ちゃん、すまんけど帰りにこいつウチの前に落っことしてってくれ」
見ると安代はこめかみを押さえてつらそうにしている。
「どうしたんですか?」
「なんや急に頭痛いなんか言い出したもんやから」
精一はドアを開けて安代を後部座席に押し込んだ。
「あいたたた!そんな強く押したら痛いわよ!」
「なに言うとんや。これから大忙しやいう時に。ほんま役に立たん奴や」
安代をしかりつけた精一は返す顔で博子にすまなそうに笑ってみせた。その精一の背中に酔っぱらった親族のひとりがからんできた。
「治夫さん、もう酔っ払ったんか?」
いや、と手をふる男の足は既にもつれていた。男は車の中にいる博子を見つけると窓から頭を突っ込んできた。酒のにおいが車内に充満した。
「お、博子さん、でしたっけ?」
「こら!」
精一があわてて男を車から引き剥がした。連行されながら男は呂律の回らない舌で歌を歌った。
「娘さん、よく聞~けよ、山男にゃ惚~れ~るなよ~」
「バカ!」
精一は男の頭をたたきながら博子に堪忍やで、と頭を下げた。
慣れない雪道をゆるゆると滑りながら博子の車は共同墓地を後にした。
「お父さんもたいへんですね」
「ううん。たいへんな顔してるだけ」
ミラーごしに安代を見ると、頭痛はどこにいったのかケロッとした顔で座っていた。
「今日だってこれから一晩中ドンチャン騒ぎよ。それが楽しみなのよ、結局。でもあんまりうれしそうにしていると体裁悪いもんだからああやって忙しそうにふるまってるだけなのよ。みんなもそう。供養供養って言ってただお酒飲みたいだけなんだから。あの人たちは」
「お母さん、頭は?」
「え?」
「仮病ですか?」
博子はミラー越しに含み笑いを浮かべた。
「何よ」
「いえ……」
「なあに?博子さん」
「みんないろいろたくらむもんだな、って」
「みんな?みんなって?」
「秋葉さんたち」
「秋葉さんたちがどうかしたの?」
「何かたくらんでるんですって」
「なにを?」
しかし博子はその先を曖昧な笑顔で濁してしまった。
車は須磨にある藤井家についた。安代にせがまれて博子は門をくぐった。
家の中はやけに薄暗い気がした。なにか見えない影が射してる、そんな印象だった。
居間には人形の飾られていない雛段があった。白木の箱が傍に積み上げられていて、蓋を開けてみるとお内裏様が顔を出した。
お茶を運んできた安代は決まり悪そうに言い訳した。
「途中までやったんだけどね、今日の準備もあったりして挫折しっちゃたの」
それから二人は改めて雛人形を飾った。博子の知っている雛人形に比べると、ここにあるのは見た目もひとまわり大きく、デザインも古風だった。
「随分立派なお人形ですね」
「古いでしょ。ひいおばあちゃんの代には既にあったって話だから」
安代の話によれば、この人形たちは嫁入りの度に家から家へとめぐり、受け継がれてきたのだという。歴代の花嫁たちの生涯とともに歳を重ねてきたというわけである。その人たちの何人かはきっと、あの墓地で彼と一緒に眠っているのだろう。そんなことを考えながら博子はちいさな櫛で人形の髪をすいた。
「年に一度しか外に出られないからきっと長生きするのね、このこたちは」
そう言って安代はしみじみと人形の顔を眺めた。
夕方になっても雪は降りやまなかった。
二人は樹の部屋の扉を開けた。
高校で絵の教師をしていた樹の部屋は油絵のカンバスで埋め尽くされていた。
博子は書棚からスケッチブックの一冊を抜き出して机の上に広げた。どのページも見憶えのある絵だった。そしてどの絵にも過ぎ去った日々のにおいがした。
博子は絵を描いている樹を傍で見ているのが好きだった。いまや遺品となってしまったそれらを見ていると忘れかけていた時間が蘇ってくる。ワトソン紙の紙の上を走る鉛筆の音が今しも聞こえてくるようだった。
追想の中にいた博子を安代の声が呼び戻した。
「ねえ、これこれ!」
安代が書棚から見つけた一冊を博子に手渡した。
「あ、卒業アルバム」
それは樹の中学時代の卒業アルバムだった。
……小樽市立色内中学校。
「小樽だったんですか?」
「そう、小樽。その後が横浜。それから博多、そして神戸」
「いいとこばっかりですね」
「住めばどこも一緒よ」
「住めば都じゃないんですか?」
「それは住めば都よ。小樽は静かでいいとこだったわ」
「どの辺ですか、小樽の」
「どこだったかな?でももうないのよ。国道かなんかの下敷きになっちゃって」
「そうですか。……あ、いた」
ページをめぐっているうちに博子は中学時代の彼を見つけた。クラスの集合写真から外れたところにひとりだけマルで囲まれて宙に浮かんでいるのが彼だった。その風貌は博子の知る彼と少しも変わっていなかった。
「転校しちゃったのよ。卒業前に」
「でも全然変わらないですね」
「そう?」
安代がアルバムを覗き込んだ。
「なんか今になって見ると不吉な写真ね」
それからふたりは集合写真の中学生たちの顔をおいかけて遊んだ。安代は学生服の少年たち相手にいい歳して、この子かわいい、好みだわ、などと言って博子を笑わせた。
「初恋の相手なんかもいたりして」
安代はそう言いながら女子の顔を指で追った。そしてひとりの女子をさした。
「あら、この子、博子さんに似てない?」
「え?」
「ひょっとして初恋の相手?」
「この子ですか?」
「初恋の人の面影を追いかけるっていうでしょ?男の人って」
「そうなんですか?」
「そうよ」
博子はアルバムに顔を近づけて目をこらしたが、どこが似ているのかよくわからなかった。博子は他にも写真がないかとページをめぐった。
「樹さん、クラブは何だったんですか?」
「陸上部」
博子は陸上部の写真を探した。
「あったあった」
それは短距離走の写真だった。樹がつまずいて転びかけた瞬間にシャッターが切られていた。ちょっと情けない写真だった。
「決定的瞬間ってやつですね」
写真の下にコメントが入っていて、『藤井のラスト・ラン!』と書いてあった。本人には気の毒だが博子はおかしくて思わずクスッと笑った。
キッチンからお湯の沸く音がして安代が立ち上がった。
「ケーキ食べる?」
「あ、いえ……」
「コム・シノワの」
「あ、じゃ」
安代が部屋を出て行っても博子はアルバムに釘付けになったままだった。どこに写っているかもわからない彼を一ページ一ページ丹念に探した。最後のページの名簿ですら見逃さなかった。博子は彼の名前を指で追った。
「藤井樹……藤井樹……」
そして指先がその名前を捉えた時、博子の中で奇妙なたくらみがひらめいた。
博子は彼の机からペンを拝借し、手のひらにかざしたが、ふと思い直して袖をまくりあげると白い腕の上にその住所を書き写した。
……小樽市銭函二丁目二四番地。
ケーキと紅茶をかかえて安代が入ってきた時には、博子の白い左腕は既にカーディガンの下に隠れていた。
「何たくらんでるの?」
安代のひと声に博子はドキリとした。
「ハ?」
「秋葉さんたち。なにかたくらんでるんでしょう?」
「え?……ああ。今夜夜襲をかけるんですって」
「夜襲?」
「夜こっそりお墓参りするんですって」
「へえ、そう!」
安代は驚きながらも何処か嬉しそうだった。
「それじゃあの子も今夜は眠れないわね」
その夜、秋葉たちが恐らく自分のたくらみを敢行している頃、博子は樹に宛てて手紙を書いた。宛先は例の左腕の住所であった。
もし安代の言うとおり国道の下敷きになっているのだとしたら決して届かないはずである。何処にも届くはずのない手紙。何処にも届かないから意味があった。この世にはいない彼に宛てて書いた手紙なのだから。
拝啓、藤井樹様。
お元気ですか?私は元気です。
渡辺博子
手紙の文面はこれだけだった。さんざん考えて何枚も便箋をまるめた末に書いた手紙がこれだけというのは我ながらおかしかったが、その短さが潔くて博子は気に入った。
(きっと彼も気に入ってくれるだろう)
博子はその手紙を夜のうちに近所のポストに投函した。風変わりな精霊流しはポストの底でカサット小さな音をたてて呆気なく終わった。
これが藤井樹の命日の、博子なりのたくらみだった。
やみかけの雪はまだちらちらと夜空を舞っていた。
《情书》是由岩井俊二自编自导的纯爱电影,由中山美穗、丰川悦司、柏原崇等主演,于1995年3月25日首映。
该片改编自同名小说《情书》,讲述了一封原本出于哀思而寄往天国的情书,却大出意料收到同名同姓的回信,并且逐渐挖掘出一段深埋多年却始终沉静的纯真单恋的爱情故事。
中村Radio——喜马拉雅FM
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