编者按:昨日为鲁迅逝世88周年,日本评论特转载藤野严九郎先生与鲁迅先生的两篇回忆文章,以此纪念这段交流佳话。
作者简介
藤野严九郎(1874年7月1日-1945年8月11日)日本医生。1874年出生于敦贺县堺郡本庄村下番(现福井县芦原市)的世代相传的医生世家。福井县立初中(福井县立藤岛高中前身)和爱知县立医科学校(名古屋大学医学部前身)毕业后,在该校担任助教,后晋升为助理教授。在东京大学学习解剖学后,经熟人敷波重次郎介绍到仙台医科大学(现东北大学医学部)担任讲师,并于 1904 年 7 月晋升为解剖学教授。1915年,仙台医科大学改组为东北帝国大学医学院。由于帝国大学的教师要求帝国大学研究生学历,医学院毕业的藤野不符合资格,于是辞职,回到福井县老家三国当了一名开业诊所医生。1945年8月11日,出诊时倒地去世,享年 71 岁。
鲁迅(1881年9月25日—1936年10月19日),原名周樟寿,后改名周树人,字豫山,后改字豫才,浙江绍兴人。中国著名文学家、思想家、革命家、教育家、美术家、书法家、民主战士,新文化运动的重要参与者,中国现代文学的奠基人之一。
因为是多年前的旧事了,所以记忆不是很清楚。但我可以确定我从爱知医学专门学校转职到仙台医学专门学校是明治三十四年(1901年)末的事。在那之后两年或三年,周树人君作为第一个从支那来的留学生进入了仙台医学专门学校学习。因为是留学生,不需要参加入学考试,周树人君和一百人左右的新入校生以及三十多人的留级生一起听课。
周君身材不高,脸圆圆的,看上去人很聪明。记得那时周君的身体就不太好,脸色不是健康的血色。当时我主讲人体解剖学,周君上课时虽然非常认真地记笔记,可是从他入学时还不能充分地听、说日语的情况来看,学习上大概很吃力。
于是我讲完课后就留下来,看看周君的笔记,把周君漏记、记错的地方添改过来。如果是在东京,周君大概会有很多留学生同胞,可是在仙台,因为只有周君一个支那人,想必他一定很寂寞。可是周君并没有让人感到他寂寞,只记得他上课时非常努力。
如果留下来当时的记录的话,就会知道周君的成绩,可惜现在什么记录也没留下来。在我的记忆中周君不是成绩非常优秀的学生。
那时我在仙台的空堀町买了房子,周君虽然也到我家里来玩过,但已没有什么特别的印象了。如果过世的妻子还在世的话,或许还可以回忆起一些事情。前年,我的长子藤野达也在福井中学时,主讲汉文的菅先生对他说“这本书上写了你父亲的事,你拿去看看。如果真是那么回事,给我们也讲一讲那些事情”。于是长子达也借回了周君写的书让我看,这些作品似乎都是佐藤翻译的。
这以后大概过了半年,菅先生来和我会面,也谈到了书中所讲的那些事情。从管先生那里,我知道周君回国之后成了优秀的文学家。菅先生去年去世了。听说在姬路师范当老师的前田先生也说过周君的一些事情。
让我再回到前面的话题。周君在仙台医学专门学校总共只学习了一年,以后就看不到他了,现在回忆起来好象当初周君学医就不是他内心的真正目标。周君临别时来我家道别,不过我忘记这次最后会面的具体时间了。据说周君直到去世一直把我的照片挂在寓所的墙上,我真感到很高兴。可是我已经记不清是在什么时候、以什么样的形式把这张照片赠送给周君的了。
如果是毕业生的话,我会和他们一起拍纪念照,可是一次也没和周君一起照过像。周君是怎样得到我这张照片的呢?说不定是妻子赠送给他的。周君文中写了我照片的事情,被他一写,我现在也很想看看自己当时的样子。我虽然被周君尊为唯一的恩师,但我所作的只不过是给他添改了一些笔记。因此被周君尊为唯一的恩师,我自己也觉得有些不可思议。
周君来日本的时候正好是日清战争以后。尽管日清战争已过去多年,不幸的是那时社会上还有日本人把支那人骂为“梳辫子和尚”,说支那人坏话的风气。所以在仙台医学专门学校也有这么一伙人以白眼看待周君,把他当成异己。
少年时代我向福井藩校毕业的野坂先生学习过汉文,所以我很尊敬支那的先贤,同时也感到要爱惜来自这个国家的人们。这大概就是我让周君感到特别亲切、特别感激的缘故吧。周君在小说里、或是对他的朋友,都把我称为恩师,如果我能早些读到他的这些作品就好了。听说周君直到逝世前都想知道我的消息,如果我能早些和周君联系上的话,周君会该有多么欢喜啊。
可是现在什么也无济于事了,真是遗憾。我退休后居住在偏僻的农村里,对外面的世界不甚了解,尤其对文学是个完全不懂的门外汉。前些天从报纸上得知周君鲁迅去世的消息,让我回忆起上面所说的那些事情。不知周君的家人现在如何生活?周君有没有孩子?
深切吊唁把我这些微不足道的亲切当作莫大恩情加以感激的周君之灵,同时祈祷周君家人健康安泰。
原文 藤野厳九郎:「謹んで周樹人様を憶ふ」
それから二年か三年して支那から初めての留学生として入学されたのが周樹人君でした。
留学生のことですから別に入学試験を受けず、落第生三十人余と新入生百人程の中に只一人まじって講義を聴いてゐました。
周さんは身丈はそんなに高くなく、丸顔でかしこさうな人でした。
この時代も余り健康な血色であったとは思はれませんでした。
私の受持は人体解剖学で教室内ではごくまじめにノートをとって居りましたが、何しろ入学された時から日本語を充分に話たり、聞いて理解することが出来なかつた様子で勉強には余程骨が折れたようでした。
それで私は時間が終はると居残って周さんのノートを見て上げて、青野人が聞き違ひしたり誤つてゐる処を訂正補筆したのでした。
異境の空にそれも東京といふなら沢山の同胞留学生も居たでせうが仙台では、前にも云ひましたやうに周さん只一人でしたから淋しいだらうと思ひましたが別にそんな様子もなく、講義中は一生懸命であつたと思ひます。
其の当時の記録が何か残つて居りますと周さんの成績もよく判かるんでせうが、現在は何もありません。
大して優れた方ではなかつたと記憶します。
その頃私は仙台の空堀町と云ふ処に一家を構へて居りまして私の家へも遊びに来られたこともあつたでせうが思ひ出すようなことはありません。
逝くなつた妻が居れば一寸は知つてゐましたでせうが、一昨年でしたが私の長男達也【恒也が正しい】が福井中学校に居りました頃漢文の受持先生であつた菅といふ人が、
『君のお父さんのことが書いてあるから読んで御覧、若し差腕圧たら話を聞かせて貰ってくれ』
と云つて周さんの書かれた本を借りて帰へり見せてくれたことがありました。
これは何でも佐藤とか言ふ人の訳でした。
其の後、半年程して菅さんが会ひに来られその話も出て周さんが支那に帰へられて立派な文学者になつて居られることを承知しました。
此の菅先生は去年死なれました。
現在姫路師範の先生をしてゐる前田さんもこんな話をし居られたと聞きました。
話は前後しますが、周さんは学校をたしか一年程続けたきりで顔を見せんやうになりました。
今思ひ出しますと何でも医学の勉強が心からの目的で中ツタのでしたでせう。
私の家へ別れの挨拶に来られたのでせうが、その最後の面会が何時であつたか忘れてしまひました。
私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいてくれたさうですが、まことに嬉しいことです。
以上のような次第でその写真を何時どんな姿で差し上げたのか憶えて居りません。
卒業生なら一緒に記念撮影もするんですが周さんとは一度も写したことがありません。
どうして手に入れられたでせうか。
妻がお渡ししておいたのかも知れません。
私もそう言はれるとその頃の自分の姿を見たいように思ひます。
私のことを唯一の恩師と仰いでいてくれたさうですが、私としましては最初に云いましたように、たゞ、ノートを少し見てあげた位のものと思ひますが、私にも不思議です。
周さんの来られた頃は日清戦争の後で相当の年数も経ってゐるにもかゝわらず、悲しいことに、日本人がまだ支那人をチャンチャン坊主と云ひ罵り、悪口を云ふ風のある頃でしたから、同級生の中にもこんな連中がゐて何かと衆参を白眼視し続け除け者にした模様があつたのです。
私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰らひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いといふ風に考へられたのでせう。
このために周さんの小説や、お友達の方に私を恩師として語ってゐてくれたんでしたらそれを読んでおけばよかつたですね。
そして死ぬまで私の消息を知りたがつていたんでしたら音信をすれば、どんなに本人も喜んでくれたでせうに。??
今となつては如何とも出来ません。残念なことでした。
何しろこんな田舎に引込んで世間のこと、特に文学と云ふことに門外漢ですから何も知りません。
それでも先日新聞で周さんの魯迅の死なれたことは新聞で読みました。
今始めて話を聴いて以上のことを憶ひ出したのです。
周さんの御家族はどうしていられませうか。子供さんはおいでゞせうか。
僅かの親切をそれ程までに恩誼として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く弔ふと共に御家族の御健康を祈って已みません。
版权声明:本次稿件由 日本评论编辑部 编辑,藤野严九郎:《谨忆周树人君》文章 译稿源自https://web.archive.org/web/20060702175958/http://clx3.ld.infoseek.co.jp/linsiyun/0622.htm,译者林思云;藤野先生文章 源自 人民教育出版社 八年级上册 第6课,如有侵权请联系本公众号删除!
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